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橋爪文さんの被ばく体験 その3

category - 日記
2013/ 03/ 29
                 
橋爪さんのお話はまだ続きます。
今回は↓の文字起こしをkoalaがざくっととまとめたものです。
4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 8/5橋爪文氏(文字起こし)
お時間のある方はぜひ上をクリックして全文をお読みください。

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スコットランドの学校で被ばく体験を語ってから2年後に
「シルバー英語研修でニュージーランドへ行きませんか?」というお誘いがあり、
橋爪さんは、すぐ応募して2週間ニュージーランドに行きました。
海外で話すようになったのはこれが始まりです。

反応は大きいそうです。
向こうの人達は、原爆の事に関心を持っていて、勉強もしています。
「知っているつもりで知らないのは日本だな」と、
橋爪さんは、痛感しながらここ10数年海外を歩きました。

特にニュージーランドは反核の国で、
一応先進国ですけれども、原発も一基もありません。
夜は暗いもの。必要最低限の街灯もありますが、
日本みたいにコンビニが四六時中やっているということもないです。
大体5時か5時半に閉まります。

そんなもんだと思った生き方をしていますから、
原発がなくても不満を持たないでやってきています。

ニュージーランドは、ヒロシマデ―を毎年やっていて、
灯篭流しをやっているそうです。
「同じ太平洋に注ぐ川を持つ私たちは広島と同じ思いで
反核を訴えよう」という事が趣旨だそうです。

世界のあちこちでヒロシマデ―ってやっているんです。
ヒロシマデーをやっている国を巡ろうと、
橋爪さんは、フィンランド、ヘルシンキにも行きました。
スウェーデンの灯篭流しやカナダの灯篭流しにも行きました。
今は広島・長崎デーにいずれもなっていますけれど、
最初はどこもヒロシマデ―でした。

どこでも出る質問、それは「アメリカ人を憎んでいますか?」
「人間は、憎みません」と答えます。
「アメリカが原爆を人間の上に落としたという事に対しては、
私は許せません」とも答えました。

「報復を考えた事がありますか?」と聞かれると、
「憎しみや報復があるところに平和は来ないでしょ」と答えました。

「あれから63年経ちますけれども、あなたは今もアメリカに
謝罪してほしいですか?保証してほしいですか?」
という質問もありました。
「被爆者に対してでなく、全人類に対して謝罪するのが
アメリカの良心じゃないんでしょうか」と答えました。

原爆を人間に落としたという事は、
人類史上始まって以来の最大の罪悪だと思うのです。
憎むとか、許す許せないっていう事じゃないところにいるような気がします。


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クライストチャーチで、ヒロシマデ―を始めた発起人の中の1人、
作家のエルシー・ロックという人に会いました。

橋爪さんはエルシー・ロックさんに言われました。

原爆は広島だけの事ではない。日本だけの事でもない。
現在の世界と、またそれだけでもなく未来の地球のこと。
あなたは、話さなきゃいけない、書かなきゃいけない。

橋爪さんが詩を作り始めたきっかけは、余命宣告でした。
それまでは、家事に明け暮れていた主婦だったのです。

息子さんたちがまだ幼い頃(3歳6歳9歳の3人)に
「あと半年ですね」と余命宣告された橋爪さんは、
息子さんたちが、生きて行くのが辛くさみしい思いをするだろうと思い、
子どもへのメッセージの詩を書くようになったそうです。

童謡を作って、彼らが苦しい時にその童謡を口ずさんで、
お母さんが「生きるのよ」って励ましてくれていると
思ってくれればいいなと思って、詩を作りはじめました。
ありがたいことに、余命宣告は当たりませんでした。

生きていたので、子どもへのメッセージの詩をまとめようと思っていたころ、
16歳になっていた次男さんが、横須賀に米軍の基地に、
核搭載疑惑の潜水艦が、入港するということで
「反対の座り込みに行く」と言い出しました。
次男さんはぜんそくが持病で、前の晩も発作を起こして寝ていなかったので、
命に関わると思い、橋爪さんは次男さんを止めました。

そうしたら次男さんはボロボロ泣きながら、言ったそうです。
「お母さんは被爆者で平和を求めているのになにもしないじゃない。
家事が大変なのはわかるけれども、新聞の投書とか何か出来るでしょ」

次男さんが寝た後で、「私になにが出来るのかな」と思っても、
何も考え付かなかったのですが、子供への詩をまとめようと
鉛筆を持って紙にむかったら、原爆の6日の夜、
火の粉を浴びながら飯田さんと過ごした、あの夜の事が詩になって出てきました。
出来上がったのが明け方で、それを、次男さんのお弁当に入れました。

次男さんは学校から帰って、「お母さん、わかったよ」って言いました。
非常に不思議なんですけど、それを書いた途端に、
それまでずーーっと背中に重いものを背負って生きてきた、
その重さが、フッと薄れてきたそうです。
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