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三浦綾子さんの言葉

category - 日記
2015/ 12/ 28
                 
賢者テラさんが、ある日のブログに三浦綾子さんのご主人、
三浦光世さんをとりあげておられました。

若い頃、愛読したものでしたが、最近は読んでいませんでした。
今はネットで簡単に名言が検索できる時代ですので、
私の好みで選んで、ご紹介したいと思います。



生きるということは、私は悲しみや苦しみに耐えることであると同時に、
平凡な日常を切り捨てずに、深く大切に生きることであるとも思う


人を励まし、希望と勇気を与えること、
これこそ本当の人間の生き方ではないだろうか。



私は肺結核、脊椎カリエス、帯状疱疹、癌と、次々にたくさんのプレゼントを
神からいただいてきた。
そしてそのたびに、私は平安を与えられて来たのである。



少なくとも、人間たる者は、医者になるとか、
政治家になるとかいう目標よりも、どんな生き方の医者になりたいとか、
どんな生きかたの政治家になりたいかを、問題にすべきではないだろうか。



キリストに従うことは、十字架を負うことなのだ。(中略)
わたしにとって身体が弱いということは、一つの十字架である。
だがわたしは、この十字架を神がわたしのために用意してくれた十字架として、
喜んで負っていかねばならない。



この世には、いわゆる役に立つ人間ばかりが生きているわけではないのです。
重病人(中略)身動きもかなわぬ老人等々。
しかし、神はその人々の命と、健康でバリバリと働いている働き盛りの人の命とに、
何の差もつけてはおりません。

どの命も神の前には等しく尊い人間として、同一視されています。



九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、
人間はまずその不満を真っ先に口からだし、
文句をいいつづけるものなのだ。
自分を顧みてつくづくそう思う。
なぜわたしたちは不満を後まわしにし、
感謝すべきことを先に言わないのだろう。



一家の中に病人がいるために、家族は忍耐することを知り、

人間としての優しさを学ぶことも出来るのです。

私は、人間として一番大切な優しさを培ってくれるのは、

一見何の役にも立たぬかに見えるこうした弱い人たちだと思います。



人生には確かに耐えがたい苦難がある。しかしそれだけに尚のこと、
感謝の種を数えて生きぬく者でありたいと思う。



今日の一日は、あってもなくてもいいという一日ではないのです。
もしも、わたしたちの命が明日終わるものだったら、
今日という一日が、どんなに貴重かわからない。





どの言葉も、三浦綾子さんの生きる上での決意を感じる素晴らしい言葉で、

背筋が引き締まる思いがしました。


三浦綾子さんの本はたくさん読んできましたが、ご主人の光世さんの本は

あまり読んでいませんでしたので、アマゾンでポチしました。

年末年始に(シュウトメちゃん帰宅なので、余裕があれば)読みたいと思います。



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コメント

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No title
新しい年を迎えるにあたって、改めて心に刻みたい言葉の数々。
三浦綾子さんの小説って勇気づけられます。
三浦綾子さんが「病気になって失ったものは健康だけ」っておっしゃってたのを聴いて、凄いな~って思いました。

正直言うとクリスチャンて苦手な部類なんですが、
信仰に生きるって、ここまで人を強くするのか~って思います。
なぜクリスチャンが苦手かというと、勧誘がウザイのと
世間から浮いてるからです。
勧誘などしなくても、三浦さんのように「生き方そのもの」が
神様を知らしめる行為であれば、自然と人々に良い影響を与えます。

話が反れましたが・・・聖書など読みまくって勉強会とかせずとも、
生き方と行動だけが神様の評価です。
No title
三浦綾子のエッセイは一通り読みました。いろいろな言葉が残っていますが、もっとも忘れられないのは、帯状疱疹など多病な自分は、神に愛され過ぎていないかといったことです。病によって人の優しさが分かったというレベルを越えていますね。

光世氏の「綾子へ」を読むと、最後はかなりひどい状態でしたが、苦情一つ言わなかったようです。
それに夫婦の関係も信仰によって、あえて言えば異様な密度です。光世氏の和歌の結句「・・・ああ妻が死に逝く」は今でも覚えています。

しかし、宗教で言えば、私は仏教に共感します。
No title
クリスチャンってなんですぐ「十字架」を背負いたくなるんでしょうかね。
koalaさんも何か十字架を背負われていますか?

koalaさんもエッセーを出版されればきっと売れると思いますよ。
No title
ねえねさんへ

私も三浦綾子さんの小説は大好きで、特に銃口が好きでした。
真摯に生きるということはどういうことなのかを
クリスチャンとして書き続けた方でしたね。
自分の病気までも神からの賜物と言い切ることのできる人は
どれくらいいるだろうと思いました。
心の奥では、そうかもしれないと感じるところもあるのですが、
病気はあまりにも苦しいので、苦しいことは嫌だという気持ちが先に立ちます。

キリスト教の考えで、贖罪、というのがありますよね。
三浦綾子さんの信仰告白とも言える小説やエッセイの数々を読んで感動しても
クリスチャンにならなかったのは、この贖罪というのがわからなかったからかなと
自分を振り返って思います。
キリストが人間の罪を代わりに背負って・・というのは今もわかりません。
No title
sioさんへ

いろいろな意味で、レベルを超えたご夫婦だと思っています。
病気の件でも、三浦綾子さんがかかってきた病気は、
寝たきりなど、半端でなく苦しいものばかり。
帯状疱疹にかかられた時も、お岩さんのように顔が腫れてしまい、
痛みに耐えている顔が美しいよと光世さんが励ましていたという話を
どのエッセイか忘れましたが読みました。

私も、原罪とか贖罪というのがピンときません。
それ以外はキリスト教の考えも好きなのですが。
No title
イリアさんへ

十字架というのをどう解釈するかで答えは違うでしょうが、
出来たら背負いたくない、都合の悪いこと、と考えたら、
いくつも十字架を背負ってきた気がします。

イリアさんにはそういうことはないのですか?
No title
koalaさんへ

それらをその都度「十字架」として仰々しく背負っていたら、生きるのが苦しくなるか、「悲劇のヒロイン」を演じて自分に酔い続けることになると思います。

そんな「奴隷」みたいな生き方は終わりにしてはいかがでしょうか。
No title
イリアさんへ

イリアさんが十字架を背負うという感覚がお嫌いなのはわかりましたが、
クリスチャンの方が「十字架」という言葉を使うときには、
キリストの背負った苦しい死を意味するほどの重い意味があると思います。
私はクリスチャンではないので、そこまで重い意味で使ったわけではないですが、
その都度というほど軽い意味で使ったわけではないです。

みんな一生懸命に生きているのですから、例えば私の生き方が、
悲劇のヒロインを演じて酔っているとイリアさんが感じたとしても、
奴隷みたいな生き方という表現は少し不適切かなと思います。
誰も、奴隷みたいに生きたいと思っている人はいませんし、
傍から見たら愚かな生き方に見えても、人生での学びをしている魂だと思います。
(根が怪しいヒトなので、怪しいコメントになりました)
No title
koalaさん

コメントはkoalaさんを攻撃するものではなかったのですが、不快にさせたなら謝ります。
No title
イリアさんへ

一年の最後の日に、ご心配させるようなコメントを書いて失礼しました。
三浦綾子さんが好きなので、残念なコメントに感じました。
個人攻撃されたと感じたわけではなく、相手が誰にせよ、
奴隷みたいな生き方という表現も、残念に感じたというだけでした。
言葉が足りませんでした。

これから新年を迎えるという日に、不快にさせてしまって、
こちらこそお詫びいたします。
いい新年をお迎えください。