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2019/12/11

2019年12月11日

        

ボケようとする自然

category - 未分類
2019/ 12/ 11
                 
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買ってきて植えた苗が咲くのも嬉しいけれど、ひとり生えして咲いた花も愛おしいですよね。

義母さんのボケが怖いという気持ちについて、賢明なネット友さんから「ボケは高齢というつらい現実を見なくても済む恵み」「ボケようとする自然に逆らうことは心の延命治療になるのではないか」とのご指摘がありました。

今まで、死の恐怖が薄くなる恵みというのは意識していましたが「見たくないもの」は、死の恐怖だけではないですよね。
クリアな意識で現実に直面したら、辛いことが多すぎる時、ボケは救いになる・・・。

昔は子供たちの服を洗濯して、ご飯を作って、いってらっしゃいと声をかけていたけれど、今は何もできなくて、役に立たない老人になってしまった。
そんな思いはあると思います。

私はすでに少しずつ役に立たなくなってきているので、役に立たなくてもいい生き方にシフトしていると考えるようにしています。でも、自分のことを自分で出来ていて、仕事にも行けて、家事もこなせるレベルなので、義母さんの気持ちが十分わかるとは思えませんが、それでもずいぶん想像はつきます。

他にも、義母さんは2人介護なしではトイレに行けません。
排尿便の姿とにおいをさらすだけでなく、失敗したらお尻を洗ってもらわなくてはいけません。
汚れた服も自分では洗えません。

普段は施設の人が、帰宅した間は長男夫婦が、嫌な顔もしないでやってくれるけれど、内心は嫌だと思いながらやっているのだろうとクリアに考えたら苦痛でしょう。
昔は嫁いびりをした、嫁もこんな風に言い返してきた、そんな記憶だってなくなった方が楽でしょう。

たまに会いに来る娘は、自分の話をするだけで、母親と思い出話の一つもしてくれるわけでもない。娘の元気な声を聴くだけでも嬉しいけれど、母親に優しい娘に育てることはできなかった、何が悪かったんだろう、そんな思考は辛いだけでしょう。

食べ物を口に入れると、「よく噛んでね、飲み込んでから次のを入れてね」と嫁にまるで子ども扱いされてしまう。
でも確かに、それをしないでむせて苦しむことも少なくない。
かつては小さい子供に、母親として注意したものだったのに、
こんなことまで注意される立場になってしまった。
こんな思いも、クリアな意識で考えると辛いと思います。

ボケるというのは、そういう現実をクリアな意識で見る辛さにもやをかけてくれます。
ボケようとする自然という言葉が腑に落ちる気がします。

読んだことはないのですが、淋しい人はボケるというタイトルの本を見たことがあります。
淋しいというのは、愛されていない、必要とされていないということでしょうか。

私にできるのは、少しだけその淋しさをごまかして上げることくらいなのかもしれません。
ごまかすという言葉は悪いですが、義母さんに心からの愛情を注いであげられるかと聞かれて、はいと答えたらそれは偽善だなという思いがあります。
情はあるんです。

なにしろ、大変なお姑さんでしたが、30年も同居してきたので、いいところもたくさん知っているんです。
でも「愛情」とまでは言えないかなというのが本音。
そういうのは実の子供にもらってよと思うのですが、実の子供さんたち3人も、愛情を注ぐ準備はできていないみたい。

義母さんが一番見たくない現実はそこなのかな?

いい母親じゃなかったという現実は、きついです。
私も母親の1人としてそれはどんなにきついか想像できます。

私自身、振り返ったら、私も凸凹だらけの母親で、あの時こうしたのはいけなかった、ここもいけなかった、っていう点が多々あるダメ母なんですよ。
ダメ母なりに一生懸命愛したんだよと自分を肯定するようにはなりましたが、過去、凹んだ経験も多いです。

ここまで書いて気が付きました。
私は同じ母親として、一部、義母さんに共感できます。
嫁いびりを受けた嫁としても、もっとひどい扱いを受けた昔の農家の嫁である義母さんに、同情しています。

義母さんは私に山のように八つ当たりしてきたけれど、それは過去に山のように傷ついてきたからなのだろうと思います。
この思いが、私の義母さんへの情なんでしょう。

この情を示していくことが、義母さんを「淋しいボケ」から少し遠ざけてくれるといいなと思いました。
そして必要以上に、義母さんのボケを心配するのは止めようと思いました。

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