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2017/08/11

2017年08月11日

        

マルセル ジュノー氏について   広島旅行記その8

category - 日記
2017/ 08/ 11
                 
伯母もシュウトメちゃんもお盆も大事ですけど、私の気分転換も大事。
ということで、しばし、思いを広島に引き戻します。




マルセル・ジュノー氏の名前も、広島でこの記念碑を見て知りました。
ジュノー氏はスイス人の医師で、連合軍の捕虜調査のために日本に向かいました。

外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員の報告によって知った
広島原爆投下後の惨状に驚愕し、本来の任務を一時休止したジュノー氏は、
マッカーサーに15トンの医薬品提供を交渉しました。

原爆投下後の惨状とその規模は、アメリカにとって絶対に秘密にしておきたいことで、
外部への情報漏れを懸念されて、当初は拒否されましたが、最終的には承諾されました。
アメリカには、敵国に医薬品を送る義務はありませんでしたが、
ジュノー氏は、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使ったそうです。

ジュノー氏は日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウエンライト中将の生存を確認し、
それを日本到着後ただちにマッカーサーに報告していました。
捕虜待遇を記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、
当時簡単に捕虜には会わせませんでした。
しかしそれを乗り越えてやり遂げたジュノー氏をマッカーサーは評価し、
貴重な情報提供に感謝していたので、交換条件が成立したのです。

「限界があっても、その限界を乗り越えるのはどうしたらよいかと絶えず考え、
可能性を追及するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した
最大の贈り物だ」と息子さんであるブノア氏は語っています。

15トンの救急医薬品には、ぺニシリン、サルファ剤、DDT、乾燥血漿などが含まれており、
極限の苦しみに会った広島市民数万人の命を救いました。
医薬品を広島県知事に引き渡し、ジュノー氏は、市内の救護所を視察し、
自らも治療に当たりました。
長崎については、訪問は叶いませんでしたが、医薬品の支援に尽力しました。

医師として、原爆の引き起こした高熱、爆風、放射能について、現地の医師たちと話し合ったそうです。
市内視察の際「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うように優しくなでた」という
マツナガ医師の言葉も、赤十字国際委員会に記録されています。

ジュノー氏は、昭和21年2月にジュネーブの赤十字本部に帰ると、
ただちに、アメリカ軍の原爆投下を糾弾するアピールを発表しました。
原爆の非人道性を告発し、核戦争を防ぐことの重要性を唱えたのです。

毎年、ジュノー氏の命日である6月16日前後の日曜日に、博士の記念祭が開催されているそうです。
「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと源氏での治療行為は、
医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。」と広島医師会の関係者が語ったそうです。

広島も長崎も、本当にとんでもない残酷なことが起きてしまった土地ですが、
そういう土地には、必ず、その惨状に立ち向かった人のいらっしゃるものですね。
でもそういう方の話は、現地では有名でも、全国的にはあまり知られていません。
ジュノー氏の功績は「世界の平和を求めて生きたドクター・ジュノー」の題名で、
中学3年の国語の教科書に取り上げられているそうですが、
もっと語り継がれてもいい話だと思いました。


            
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