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2017/08/07
2017/08/07

2017年08月07日

        

ノーマン・カズンズ氏石碑  広島旅行記その7

category - 日記
2017/ 08/ 07
                 

これはちょっと旅行記からは外れますが、平和記念公園で見つけた石碑の話です。



ノーマン・カズンズ氏記念碑

「世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め
責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である ノーマン・カズンズ」

カズンズ氏は、1949年に広島を訪れ、原爆投下の惨状、原爆孤児たちに衝撃を受けて
原爆孤児たちの育成のための運動を開始しました。
米国人が広島原爆孤児の精神的な養子とし、年額20ドルの養育費を送るという運動で、
400名以上の孤児に対する支援を実施しました。

また原爆によってケロイドを負った若い女性たち(原爆乙女)への義援金を募り、
1955年に原爆乙女25名がニューヨークの病院で治療を受けられました。

カズンズ氏のことを調べたら、とてもユニークで魅力的な人物に感じました。
ここからは広島の問題とは関係ない話になります。

ジャーナリストのカズンズ氏は、50歳の時に難病である膠原病にかかりました。
全快の可能性が極めて低い病気で、当時、治る確率は500分の1と言われたとか。
加えてアレルギーがあったため、あらゆる薬で副作用が出てしまい、薬がつかえませんでした。

カズンズ氏は、自分の病気を医者だけにまかせていいのだろうか?と考えました。
「積極的な情緒は、積極的な化学反応を引き起こさないだろうか。
愛や、希望や、信仰や、笑いや、信頼や、生への意欲が治療的価値を持つことも
ありえるのだろうか」と考え、自分に不足しているビタミンなどを調べ、
主治医に相談したそうです。
主治医も立派で、患者と医師との相互協力はまことに結構だと言ったそうです。

10分間、腹を抱えて笑うと少なくても2時間は痛みを感じずに眠れるという効き目を発見し、
膠原病患者はビタミンⅭが著しく欠乏していることも発見し、大量摂取したりもしました。
そして、膠原病を克服、仕事に復帰しました。

しかし、今度は心臓病を患いました。元々心臓に問題があったらしく、
この時は安静にしていても余命18ヵ月と宣告されたそうです。
その時も諦めず、主治医の進める検査と手術は断り、たくさんに人脈によって論文を調べたり、
セカンドオピニオンを得た上で、徹底した食事管理と運動で、病気を克服しました。
安静にしていても余命18ヵ月と言われたカズンズ氏は、ゴルフやテニスが問題なくできるまでになりました。
広島で石碑を見つけなければ、カズンズ氏のことは、知らないままだったことでしょう。


話は変わりますが、伯母は7日に緩和ケア病棟に移動しました。
病院から、「部屋を変わります」との電話がありました。
ちょうど台風が接近していて、私は出勤シフトでしたが、
職場自体がお休みとなったという連絡をいただきました。

伯母は部屋を変わったことで疲れたみたいで、私が行った時は眠っていました。
私が何度か声をかけたので、目を覚ましましたが、疲れた顔をしていました。
入院した時にすでに貧血が見られたので、それも悪化しているのでしょう。
慣れてきた看護婦さんも全部変わるわけですし、いよいよ緩和ケアという思いもあるでしょう。

そこで、カズンズ氏のことを思いました。
笑い療法の元祖、カズンズ氏。
伯母の状態は、笑い療法が効くようなレベルではないでしょう。
10分間、腹を抱えて笑うと少なくても2時間は痛みを感じずに眠れるという効き目を
カズンズ氏が実感していたことを思うと、ニヤリとでも笑うことは、
今の伯母の生きやすさを少しでも増すのではないかと思いました。
もちろんそのためもあって、私も毎日会いに行って、話をして、
手をパッチンと合わせて帰ってくるのですが、笑いを誘うような画像を
ネットで拾って印刷して持って行くのはどうだろう?と思いました。
試してみようと思います。












            
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広島平和記念公園と原爆ドーム 広島旅行記その6

category - 日記
2017/ 08/ 07
                 
伯母の所へは、ほぼ毎日行っています。
「8月6日は広島に原爆が落ちた日だったね」
「伯母さんは戦争の経験をしていたよね。もしかして防空壕に入ったことがあった?」と
戦争の話をしたら、防空壕に入ったことがあるという所で、伯母は大きく頷きました。

伯母は言語障害で話せないので、こちらから聞くことにイエス・ノーの意思表示をする形でしか
会話?は成り立ちませんが、いろいろ話すことができました。

広島旅行記の続きです。



宮島から船とJRを乗り継いで、広島駅に行きました。
駅で荷物をコインロッカーに入れ、牡蠣のランチを食べて、
タクシーで平和記念公園に。(路面電車やバスでも行けます)

平和記念公園は、元々は、中島地区と呼ばれる、人もたくさん住んでいた場所でした。
幕末から明治・大正にかけて、市内有数の繁華街として栄えていたそうです。

中島地区と呼ばれたこの地区は、当時1300世帯・約4400人が暮らしていたそうです。
原爆が落ち、活気に満ちた町も、住んでいた人たちも、一瞬に消滅した場所、
その場所に自分が立っているというのは、震える思いでした。

どうして広島に原爆が落とされたのか。
日本の大都市の多くは、原爆投下前に度重なる空襲で大きな被害を受けていましたが、
広島には空襲がなかったこと、広島には米兵の捕虜基地がなかったと認識していたこと
(実際は捕虜はそこそこの数いたそうですが)、地形的に山に囲まれていて、
原爆投下実験に適していたこと、重要な軍事工場があったこと、投下当日の天気が快晴だったこと。

どうして、米兵の捕虜基地がないと認識していて、重要な軍事工場がある大都市広島に、
それまで空襲がなかったのか。もちろん計画的に空襲を禁止していたのです。

原爆による被害の結果を明確にするためには、事前に空襲の被害はない方がいいわけです。
そして原爆投下後、原爆症に苦しむ人たちを対象に、治療ではなく、調査が行われました。

アメリカ軍は、大金を投じて、2つの原爆を作りました。
投資には結果を出さないといけなかったのですよね。

戦争は本当に恐ろしいですね。
原爆症で苦しむ人たちは、何とか助けてあげなければいけない人たちではなく、
原爆を浴びた人間の身体がどうなっていくのか、調べるためのモルモットにされました。
「サンプル」って呼ばれていたらしいです。

アメリカは原爆を落とす前から、大体どういう影響が出るか推測し、詳しく調べるために、
広島市を見下ろす比治山の上にABCCを建てて、原爆症の調査を始めました。
はだしのゲンの作者、中沢啓二さんも、お母さまも被爆しましたが、
被爆後21年後にお母様が死亡した際にABCCが来て、内臓をくれと言ったそうです。
21年後でも、死んだとたんに訪ねてきて、内臓をくれといったわけですから、
アメリカには山のような被爆者の内臓のサンプルが集まっていることでしょう。
日本の医者・科学者たちも協力したんだろうなぁって想像しちゃいますよね。

勤労奉仕で全国から集まっていた学徒たちも、原爆でたくさん亡くなりました。
出身県と名前が刻まれた石碑が、原爆ドーム近くにありました。



原爆ドームの建物自体は残りましたが、火をふきだして燃えたそうで、
中にいた人は全員即死したそうです。

知りませんでしたが、外国では、原爆といえば、広島だそうで、
広島は有名でも長崎を知らない人が多いとか。
長崎で被爆した浦上天主堂は、長崎市の市議会で、保存することで意見が一致していました。
しかし、長崎市長は、アメリカの招待で1ヵ月の視察旅行に行くんです。
帰ってきた市長は、それまで保存に向けて動いていたのに、強く取り壊しを主張、
結局、浦上天主堂は、取り壊しされ、再建されました。

海外のクリスチャンの方たちが、保存された浦上天主堂を見たら、どういう反応を示すか、
それを考えたら、浦上天主堂は壊すしかなかったと思います。
広島の被爆が有名になるのは仕方ないけれど、
長崎の教会の被爆、信者の大量死は隠したいですよね。

長崎で被爆した神父さんのミサのお話の中に、こんな言葉がありました。

私たちの信仰は、私たちの神を生かすためです。私たちの信仰は生きることが中心です。しかし、戦争はまるっきり反対です。王を殺した者が勲章を受けて賛美される。そして、自分たちも、国のためとか、何とかのために死ぬことが賛美される。戦争というものは、死が賛美されるものです。私たちの信仰とはまるっきり反対です。本当にまるっきり反対です。
核兵器があって戦争が起こったのではありません。戦争があって人を殺して賛美されるために、核兵器ができたのです。順序を間違えないでください。





今日はここまでにします。
まだ書き足したいことがあるので、まだ旅行記は続きます。