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2017年08月

        

今日は仕事が休みです

category - 日記
2017/ 08/ 17
                 
伯母はかなり弱っていますが、私が来たことは理解しています。
しっかり目を開ける元気がないだけです。

2日前までは、私が毎日プリントアウトした画像を見て、
話しかけるといろいろ反応していましたが、
あれは伯母が私に気をつかって、一生懸命頑張っていたのかと思うと、
大変なのに無理させてごめんねという思いが湧きます。

今は伯母に「私の声、聞こえてるよね。
無理して目を開けないでいいからね」と言っています。
伯母のまぶたが少しだけ動いて、わかったと言いたいのがわかります。

ユーチューブで音楽を流します。
クラシックだったり、美空ひばりや石原裕次郎だったり。

オットは会社のお盆休みなので、毎日一緒に病院に行ってくれます。
私はその後、出勤だったりするので、簡単なランチを食べて家に帰る毎日、

今日は私は仕事が休みだったので、少しゆっくりのランチでした。

このお店、サラダバーがとても充実しててよかったのに、
来月始めに閉店だそうです。残念。



あ、縦横が逆になってしまいました。(爆)山盛りのサラダ。




                         
                                  
        

伯母の手を撫でる

category - 日記
2017/ 08/ 15
                 
伯母はがんの痛みがなくて助かっていますが、
寝たきりのために硬直するのか、身体を拭いていただく際に、姿勢を変えたり、
触ったりすると(というか触らずに拭けませんが)、足がとても痛いそうです。

伯母は車椅子になってから、足がむくむようになり、痛みもあって、
この5年ほどは、ロキソニンゲルを塗ってきました。
今は触るだけでも痛いので、それさえ塗れません。
足のむくみは、末期がんの症状の一つでもあるのですが、
伯母の場合は、5年前からむくんでいるので、どこまでががんのせいかわかりません。

でもずっと痛いわけではなく、触ったり、姿勢を変える時に痛むので、
その後しばらくすれば、痛みはなくなるらしいです。

昨日のことですが、訪問したら、身体拭きが終わった直後でした。
部屋がかなり冷えていて、エアコンは26度の設定でした。
身体を拭いていただいたばかりの伯母は、
目を閉じて、眠っているように見えました。

寒くないかしらとそっと足にケットをかけた途端、伯母が痛みで目を覚ましました。
それまで寝ていた伯母が、かなり痛そうなしかめっ面をしたので、
びっくりして謝りましたが、本当に痛かったみたいで、申し訳なかったです。

身体を拭くのは、毎朝ですが、伯母が入浴を嫌がることも、
身体を動かすだけで痛いからなのかもしれません。
寝たままの姿勢で入浴できるにしても、ベッドから入浴用のベッドに
移動しなければいけないのは当然のことです。

今朝は、やはり同じような時間に行くことになり、
昨日の失敗を繰り返さないようにしようと気を付けました。
伯母は熱は出ていませんし、もともと暑がりではありましたが、
26度の部屋で、バスタオルをかけただけで、寝ていました。

いつもは寝ていても、「伯母さん、おはよう。」と声をかけると起きるのですが、
今日は、しばらくの間、目を覚ましませんでした。
覚悟はしていますが、弱っていく姿を目の当たりにすると辛いですね。
伯母の手をゆっくり撫でたり、握手したりしていました。

時々伯母のまぶたが動くので、私がいることは認識しているなと思いました。
身体拭きで足が痛くて疲れて、そのあと寝ているときに私が来て、
遠くで私の声が聞こえて、手が握られているのもぼんやり感じて、
そういう時間でいいよね、伯母さん、という気持でいました。

伯母は時々瞬間的に目が開いて、すぐに眠りに落ちた感じになるというのを繰り返してから、
ぱっちりと目を開けて、私を見ました。

伯母は眠いんだけれど、私が来たので、目覚めようと頑張ったのだとわかりました。
長い時間、起きているのは難しいだろうというのもわかりました。

私が今日伯母のために用意してきた写真は、6枚でした。
A4でプリントアウトした、出雲大社の画像と、子猫を温めてあげている鳥の画像。
伯母にそれらを見せながら話をして、少し脱線して別の話もして、
いっぱい握手して、最後は「また来るね」と言って、手をパッチンと合わせます。

こういう時間が永遠じゃないとわかってる。
伯母とさよならするたびに、手をパッチンと合わせてきたけれど、
近いうちに、伯母は、手をパッチンする元気も失ってしまうかもしれません。

食事をとらなくて、点滴だけで生きているという状態が、もう3週間以上続いています。
点滴だけで生きられる期間は、個人差が大きくて、
2~3週間の人もいれば3か月の人もいるとのことです。

伯母が痛くて苦しんだりすることがありませんように。
明日は、身体拭きが始まる前の時間になるように早めに出かけてみようかなと思います。
身体拭きで痛かったり疲れたりした後は、ぐっすり眠れる方がいいですよね、きっと。

                         
                                  
        

8月のシュウトメちゃん帰宅

category - 日記
2017/ 08/ 13
                 
 その1 夕食を食べてないと言う+キャットフードを食べたかも

毎月2泊3日、自宅に帰ります。
初日、夕食を食べていないと言い出すのは、恒例となっています。

「もう食べたんだよ。」と説明して、「ちょっとお腹空いたのかな?おやつ食べようね」と
夜なので軽くゼリーなど食べさせるのも恒例なのですが、
今月のシュウトメちゃんは、手にキャットフードを握りしめていました。

シュウトメちゃんが施設にいる間、シュウトメちゃんの部屋に子猫の小雪ちゃんを
入れて遊ばせることがよくあって、赤ちゃん用のカリカリが置いてあったんです。
ごく少量のパックで、ぱっと見た感じ、人間用のおやつに見えないこともないかも。
それを見つけたシュウトメちゃんは、内緒で食べようと思って封を開けたのでしょう。

手に握りしめたキャットフードを見つけた私は、結構驚いて、でもなるべく平気な声で、
「おばあちゃん、これはね、猫のエサなの。置いておいてごめんね。
これは私に頂戴ね。おばあちゃんはゼリーがいいかな。持ってきますね。」
そう言うと、シュウトメちゃんも「猫のエサだったか」ときまり悪そうでした。

その後、トイレに連れていき、立たせた際に、ばらばらとキャットフードが落ちました。
手に握りしめただけじゃなくて、車椅子の中にそこそこ落ちていたキャットフードを見て、
「あれは食べたな」と後でオットがぽつりと言いました。
「人間が食べても外になることはないから大丈夫。でも、うっかりしてた。
今度からは帰ってきたらすぐに、お疲れ様、っておやつを出した方がいいね。」と私。

 その2 風邪を引いたら大変だと繰り返す

これは1年中そうなのですが、自宅は寒いという思い込みはとても強いです。
秋から春まで、エアコン設定温度は30度を主張します。
夏な熱中症が怖いんだよと、28度を勧めて、そうしているのですが、
ベッドに寝転んでいると、突然風邪を引くかもと思うらしく、
温度を上げてくれと呼んだり、夏用ケット以外にもそばに置いてあるバスタオルなどを
足して自分にかけて、汗をかいたりしていました。
ずっとそばにいれば防げることですが、ずっとは無理です。

「夏風邪をひくと、なかなか治らないから」と言うので、
「この温度のせいで夏風邪を引くことはなくて、熱中症の方がうんと怖いんだよ」と
お茶を飲ませて、言い聞かせて、その場は納得するようなのですが、忘れます。

  その3 細かいところで色々へン

例えば、昨日の夕食は、家族揃って食べました。
シュウトメちゃんは食欲はとても旺盛で、3食ともよく食べます。
間におやつもあるので、それほどがつがつすることもなさそうなのですが、
口にいれた食べ物を、充分噛んでのみこむ前に、次の食べ物を入れようとします。
食事の間、何度も、いったんスプーンを手から放そうねとか、
まだ前のを飲み込んでいないから、今食べるとむせちゃうよとか、注意を繰り返します。

また、食事中にお茶を飲もうとしてカップを取りあげ、なぜか半量を、
卵豆腐の入っていた(完食済)の食器にあけて、それを飲もうとします。
「おばあちゃん?卵豆腐のだしの味が混じるよ。カップのお茶を飲んだ方がいいよ?」
そう言うと、「カップは重いから」と言うのですが、カップはプラスチックの取っ手付きのもの、
卵豆腐の食器は陶器で、取っ手も当然なくて、重いし、卵豆腐のかすが入っています。
結局、シュウトメちゃんは、卵豆腐の食器に入れたお茶を飲みたいようで、
止めたんですが(どうしてもだめ!と強く止めたわけではないです)そちらを飲んでいました。

そのたぐいのことがいくつもありました。

 その4 淋しくなると、心臓が苦しいと騒ぐ

これは過去何度もあったことで、病院にも何度駆け込んだかわかりません。
今年も1度、大きな病院の救急外来に走ってしまいましたが、
実際の所、どんな検査をしても異常なしで、それ以前に、
病院に着いた頃には、ハアハアしていた息が普通の息に戻っていました。

過去には、大学病院の教授先生までが説明してくださって、
シュウトメちゃんに薬を出すとしたら、精神安定剤だけです、
でもこれだけたくさん薬を飲んでいる方には、とてもお勧めできませんとまで言われました。

その後も、あまりに何度も「息が苦しい、胸が苦しい」と訴えられて、
かまってちゃんだから、淋しいとなるんだよね、でももしオオカミが来た、みたいなことなら??
不安になって、かかりつけ医に走り、心臓の検査をしていただき、
大学病院の経緯もご存じの先生に、同じ事を諭されるように言われました。

いつもはお盆には、義姉が来てくれるのですが、今年はなかなか義姉からの連絡もなく、
やっと昨日電話がありました。
お盆には行けないから19日の午前に我が家に来るとのこと。
19日はシュウトメちゃんはもう家にいませんが、わが家の仏壇に舅のお参りに来るのだそう。

その後、多分、オットと私が義姉2人を乗せて、シュウトメちゃんの施設に行き、
ランチを御馳走して、もしかしたら下の義姉をお家まで送るということになりそうですが、
それはこちらの想像であって、時間がないから施設には寄れないというかもしれません。
だから、昨夜義姉から19日に行くと聞いたときも、その話は、
シュウトメちゃんにはしてありませんでした。

シュウトメちゃんから、義姉たちのことを聞かれることはもう全くありません。
義姉たちが「便りのないのはいい便りと言うじゃない。そう思ってもらわないと困る」と言われたし。
でも、今年のお盆は来てくれない、どうしてだろうかと考えて、
淋しくなって心臓が苦しくなってということかもしれないです。

以前は、義姉たちがホントに冷たいと腹立たしかったのですが、
毒親から逃げないと、自分がメンタル的に厳しいという可能性もあるだろうと思うようになり
これは私の問題ではないときっちり線引きをして、私は気楽になっていました。
でもシュウトメちゃんは、義姉たちへの執着が強いのでしょう。
執着という言葉は冷たいのでしょうが、義姉はシュウトメちゃんがどうにも精神的に重いわけで、
義姉たちの幸せを思ったら、執着なんじゃないかと私は感じています。

今朝も5時少しすぎに心臓が!って騒ぐので、大丈夫だよ,お茶を飲もうねと励まし、
オットと交代で部屋に一緒にいて、淋しさの穴埋め作業に励んでおります。
そろそろオットと交代する時間です。

2泊3日でヘロヘロです。今朝は10時に送っていきます。
オットと2人、シュウトメちゃんを送って行ったら、伯母のお見舞いに行って、
実家の方のお墓参りをして、両親は永代供養なので、
本来はそのお寺と実家のお仏壇の両方にお参りすべきですが、
お仏壇だけお参りすることにさせていただいて、
午後からは我が家にお寺の和尚様がお経をあげに来てくださるのでその準備をしてと
ハードスケジュールが待っています。
もうひと踏ん張りです。

今日のブログ、愚痴みたいでしたらごめんなさい。
そういう気持ちはなくて書きましたが、振り返ると、これって記録兼愚痴って感じ。(苦笑)
でも、今、命があることに感謝、合掌です。
とりあえず、自分が元気で動けて有難いことのこのうえなし、です。
まあ、できなくなったらできなくなったで、なんとかなるものなので心配はしていませんが、
忙しいと言っても、記録(兼愚痴?)ブログを書ける程度ですからね。

では、いざ、シュウトメちゃんの部屋へ。
目がぱっちり覚めてたら、すぐにシュウトメちゃんの朝ご飯タイムにしちゃおう。
                         
                                  
        

マルセル ジュノー氏について   広島旅行記その8

category - 日記
2017/ 08/ 11
                 
伯母もシュウトメちゃんもお盆も大事ですけど、私の気分転換も大事。
ということで、しばし、思いを広島に引き戻します。




マルセル・ジュノー氏の名前も、広島でこの記念碑を見て知りました。
ジュノー氏はスイス人の医師で、連合軍の捕虜調査のために日本に向かいました。

外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員の報告によって知った
広島原爆投下後の惨状に驚愕し、本来の任務を一時休止したジュノー氏は、
マッカーサーに15トンの医薬品提供を交渉しました。

原爆投下後の惨状とその規模は、アメリカにとって絶対に秘密にしておきたいことで、
外部への情報漏れを懸念されて、当初は拒否されましたが、最終的には承諾されました。
アメリカには、敵国に医薬品を送る義務はありませんでしたが、
ジュノー氏は、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使ったそうです。

ジュノー氏は日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウエンライト中将の生存を確認し、
それを日本到着後ただちにマッカーサーに報告していました。
捕虜待遇を記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、
当時簡単に捕虜には会わせませんでした。
しかしそれを乗り越えてやり遂げたジュノー氏をマッカーサーは評価し、
貴重な情報提供に感謝していたので、交換条件が成立したのです。

「限界があっても、その限界を乗り越えるのはどうしたらよいかと絶えず考え、
可能性を追及するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した
最大の贈り物だ」と息子さんであるブノア氏は語っています。

15トンの救急医薬品には、ぺニシリン、サルファ剤、DDT、乾燥血漿などが含まれており、
極限の苦しみに会った広島市民数万人の命を救いました。
医薬品を広島県知事に引き渡し、ジュノー氏は、市内の救護所を視察し、
自らも治療に当たりました。
長崎については、訪問は叶いませんでしたが、医薬品の支援に尽力しました。

医師として、原爆の引き起こした高熱、爆風、放射能について、現地の医師たちと話し合ったそうです。
市内視察の際「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うように優しくなでた」という
マツナガ医師の言葉も、赤十字国際委員会に記録されています。

ジュノー氏は、昭和21年2月にジュネーブの赤十字本部に帰ると、
ただちに、アメリカ軍の原爆投下を糾弾するアピールを発表しました。
原爆の非人道性を告発し、核戦争を防ぐことの重要性を唱えたのです。

毎年、ジュノー氏の命日である6月16日前後の日曜日に、博士の記念祭が開催されているそうです。
「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと源氏での治療行為は、
医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。」と広島医師会の関係者が語ったそうです。

広島も長崎も、本当にとんでもない残酷なことが起きてしまった土地ですが、
そういう土地には、必ず、その惨状に立ち向かった人のいらっしゃるものですね。
でもそういう方の話は、現地では有名でも、全国的にはあまり知られていません。
ジュノー氏の功績は「世界の平和を求めて生きたドクター・ジュノー」の題名で、
中学3年の国語の教科書に取り上げられているそうですが、
もっと語り継がれてもいい話だと思いました。


                         
                                  
        

明日はシュウトメちゃんの帰宅日です

category - 日記
2017/ 08/ 10
                 
伯母の病室に行って、私は1人で話をします。
もうほとんど声を出さない伯母ですが、意識ははっきりしていて、
目を合わせると、頭もしっかりしているのがわかります。

最近は、いろんな画像をプリントアウトして、見せておしゃべりもしています。
面白画像よりも、風景の画像が好きみたい。
伯母は旅行が好きだったので、観光地の画像もいいかも。

シュウトメちゃんがボケかけた時も、脳トレのためにたくさんプリントアウトしたっけ。
ドリフターズの画像をプリントして、一人一人の顔を指さして、
これ誰かわかる?って聞いたりしたのがついこの間のことみたいですが、
もう去年のことなのでありました。

伯母にはそういうクイズ画像は必要ないけれど、昔のスターの画像もいいかも。
懐かしいねぇという話をするのに、ちょうどいい画像を探してみようかな。

という風に、伯母のことと家事ともうすぐ来るお盆の準備だけでも
充分に手一杯なのですが、明日はシュウトメちゃんの帰宅日です。
実は今回はパスできないかと思ったのですが、もうシュウトメちゃんが
施設に泊らない日には、シュウトメちゃんの使っている部屋は、
他のショートステイの方の予約が入ってました。

ハードだけど、オットも長女も長いお盆休みに入ります。(長男は長期休暇無し)
私も昨日から5連休を頂いたので、何とか乗り切ります。

明日、伯母に会いに行ったら、「明日は来れないからごめんね」と言わなくちゃ。
明日はシュウトメちゃんをお迎えに行く前になら、伯母の所へ行けます。
明後日はシュウトメちゃんが丸1日いる日なので、伯母に会いに行くのはハード過ぎ。
言わなくて行かなかったら、待ってるかもしれないので。

こういう時、義姉が頼れたらいいのですが、一切面倒は見られないと言われています。
いろいろ懲りたので、今更頼ろうとも思いませんけどね。

さあ、2泊3日を乗り切るぞ~。

                         
                                  
        

ノーマン・カズンズ氏石碑  広島旅行記その7

category - 日記
2017/ 08/ 07
                 

これはちょっと旅行記からは外れますが、平和記念公園で見つけた石碑の話です。



ノーマン・カズンズ氏記念碑

「世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め
責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である ノーマン・カズンズ」

カズンズ氏は、1949年に広島を訪れ、原爆投下の惨状、原爆孤児たちに衝撃を受けて
原爆孤児たちの育成のための運動を開始しました。
米国人が広島原爆孤児の精神的な養子とし、年額20ドルの養育費を送るという運動で、
400名以上の孤児に対する支援を実施しました。

また原爆によってケロイドを負った若い女性たち(原爆乙女)への義援金を募り、
1955年に原爆乙女25名がニューヨークの病院で治療を受けられました。

カズンズ氏のことを調べたら、とてもユニークで魅力的な人物に感じました。
ここからは広島の問題とは関係ない話になります。

ジャーナリストのカズンズ氏は、50歳の時に難病である膠原病にかかりました。
全快の可能性が極めて低い病気で、当時、治る確率は500分の1と言われたとか。
加えてアレルギーがあったため、あらゆる薬で副作用が出てしまい、薬がつかえませんでした。

カズンズ氏は、自分の病気を医者だけにまかせていいのだろうか?と考えました。
「積極的な情緒は、積極的な化学反応を引き起こさないだろうか。
愛や、希望や、信仰や、笑いや、信頼や、生への意欲が治療的価値を持つことも
ありえるのだろうか」と考え、自分に不足しているビタミンなどを調べ、
主治医に相談したそうです。
主治医も立派で、患者と医師との相互協力はまことに結構だと言ったそうです。

10分間、腹を抱えて笑うと少なくても2時間は痛みを感じずに眠れるという効き目を発見し、
膠原病患者はビタミンⅭが著しく欠乏していることも発見し、大量摂取したりもしました。
そして、膠原病を克服、仕事に復帰しました。

しかし、今度は心臓病を患いました。元々心臓に問題があったらしく、
この時は安静にしていても余命18ヵ月と宣告されたそうです。
その時も諦めず、主治医の進める検査と手術は断り、たくさんに人脈によって論文を調べたり、
セカンドオピニオンを得た上で、徹底した食事管理と運動で、病気を克服しました。
安静にしていても余命18ヵ月と言われたカズンズ氏は、ゴルフやテニスが問題なくできるまでになりました。
広島で石碑を見つけなければ、カズンズ氏のことは、知らないままだったことでしょう。


話は変わりますが、伯母は7日に緩和ケア病棟に移動しました。
病院から、「部屋を変わります」との電話がありました。
ちょうど台風が接近していて、私は出勤シフトでしたが、
職場自体がお休みとなったという連絡をいただきました。

伯母は部屋を変わったことで疲れたみたいで、私が行った時は眠っていました。
私が何度か声をかけたので、目を覚ましましたが、疲れた顔をしていました。
入院した時にすでに貧血が見られたので、それも悪化しているのでしょう。
慣れてきた看護婦さんも全部変わるわけですし、いよいよ緩和ケアという思いもあるでしょう。

そこで、カズンズ氏のことを思いました。
笑い療法の元祖、カズンズ氏。
伯母の状態は、笑い療法が効くようなレベルではないでしょう。
10分間、腹を抱えて笑うと少なくても2時間は痛みを感じずに眠れるという効き目を
カズンズ氏が実感していたことを思うと、ニヤリとでも笑うことは、
今の伯母の生きやすさを少しでも増すのではないかと思いました。
もちろんそのためもあって、私も毎日会いに行って、話をして、
手をパッチンと合わせて帰ってくるのですが、笑いを誘うような画像を
ネットで拾って印刷して持って行くのはどうだろう?と思いました。
試してみようと思います。












                         
                                  
        

広島平和記念公園と原爆ドーム 広島旅行記その6

category - 日記
2017/ 08/ 07
                 
伯母の所へは、ほぼ毎日行っています。
「8月6日は広島に原爆が落ちた日だったね」
「伯母さんは戦争の経験をしていたよね。もしかして防空壕に入ったことがあった?」と
戦争の話をしたら、防空壕に入ったことがあるという所で、伯母は大きく頷きました。

伯母は言語障害で話せないので、こちらから聞くことにイエス・ノーの意思表示をする形でしか
会話?は成り立ちませんが、いろいろ話すことができました。

広島旅行記の続きです。



宮島から船とJRを乗り継いで、広島駅に行きました。
駅で荷物をコインロッカーに入れ、牡蠣のランチを食べて、
タクシーで平和記念公園に。(路面電車やバスでも行けます)

平和記念公園は、元々は、中島地区と呼ばれる、人もたくさん住んでいた場所でした。
幕末から明治・大正にかけて、市内有数の繁華街として栄えていたそうです。

中島地区と呼ばれたこの地区は、当時1300世帯・約4400人が暮らしていたそうです。
原爆が落ち、活気に満ちた町も、住んでいた人たちも、一瞬に消滅した場所、
その場所に自分が立っているというのは、震える思いでした。

どうして広島に原爆が落とされたのか。
日本の大都市の多くは、原爆投下前に度重なる空襲で大きな被害を受けていましたが、
広島には空襲がなかったこと、広島には米兵の捕虜基地がなかったと認識していたこと
(実際は捕虜はそこそこの数いたそうですが)、地形的に山に囲まれていて、
原爆投下実験に適していたこと、重要な軍事工場があったこと、投下当日の天気が快晴だったこと。

どうして、米兵の捕虜基地がないと認識していて、重要な軍事工場がある大都市広島に、
それまで空襲がなかったのか。もちろん計画的に空襲を禁止していたのです。

原爆による被害の結果を明確にするためには、事前に空襲の被害はない方がいいわけです。
そして原爆投下後、原爆症に苦しむ人たちを対象に、治療ではなく、調査が行われました。

アメリカ軍は、大金を投じて、2つの原爆を作りました。
投資には結果を出さないといけなかったのですよね。

戦争は本当に恐ろしいですね。
原爆症で苦しむ人たちは、何とか助けてあげなければいけない人たちではなく、
原爆を浴びた人間の身体がどうなっていくのか、調べるためのモルモットにされました。
「サンプル」って呼ばれていたらしいです。

アメリカは原爆を落とす前から、大体どういう影響が出るか推測し、詳しく調べるために、
広島市を見下ろす比治山の上にABCCを建てて、原爆症の調査を始めました。
はだしのゲンの作者、中沢啓二さんも、お母さまも被爆しましたが、
被爆後21年後にお母様が死亡した際にABCCが来て、内臓をくれと言ったそうです。
21年後でも、死んだとたんに訪ねてきて、内臓をくれといったわけですから、
アメリカには山のような被爆者の内臓のサンプルが集まっていることでしょう。
日本の医者・科学者たちも協力したんだろうなぁって想像しちゃいますよね。

勤労奉仕で全国から集まっていた学徒たちも、原爆でたくさん亡くなりました。
出身県と名前が刻まれた石碑が、原爆ドーム近くにありました。



原爆ドームの建物自体は残りましたが、火をふきだして燃えたそうで、
中にいた人は全員即死したそうです。

知りませんでしたが、外国では、原爆といえば、広島だそうで、
広島は有名でも長崎を知らない人が多いとか。
長崎で被爆した浦上天主堂は、長崎市の市議会で、保存することで意見が一致していました。
しかし、長崎市長は、アメリカの招待で1ヵ月の視察旅行に行くんです。
帰ってきた市長は、それまで保存に向けて動いていたのに、強く取り壊しを主張、
結局、浦上天主堂は、取り壊しされ、再建されました。

海外のクリスチャンの方たちが、保存された浦上天主堂を見たら、どういう反応を示すか、
それを考えたら、浦上天主堂は壊すしかなかったと思います。
広島の被爆が有名になるのは仕方ないけれど、
長崎の教会の被爆、信者の大量死は隠したいですよね。

長崎で被爆した神父さんのミサのお話の中に、こんな言葉がありました。

私たちの信仰は、私たちの神を生かすためです。私たちの信仰は生きることが中心です。しかし、戦争はまるっきり反対です。王を殺した者が勲章を受けて賛美される。そして、自分たちも、国のためとか、何とかのために死ぬことが賛美される。戦争というものは、死が賛美されるものです。私たちの信仰とはまるっきり反対です。本当にまるっきり反対です。
核兵器があって戦争が起こったのではありません。戦争があって人を殺して賛美されるために、核兵器ができたのです。順序を間違えないでください。





今日はここまでにします。
まだ書き足したいことがあるので、まだ旅行記は続きます。





                         
                                  
        

広島で食べたご飯~ 広島旅行記その5

category - 日記
2017/ 08/ 05
                 
気分転換に旅行記の続きを。
今回はご飯編です。

宮島にはあなご飯のお店がたくさんあります。
ここは「ふじたや」さん。
あなごは焼きと蒸しがありますが、ここは焼きのお店です。
かなり美味しかったです。




次は旅館のご飯ですが、写真は2枚だけしか写していません。
食べるのに熱心過ぎた?(笑)
かなりの品数が出てきましたし、美味しかったです。






2日目のランチは牡蠣にしました。
牡蠣フライのセットについている牡蠣ご飯は2杯までお代わりオッケーなんだって。
別注文でも牡蠣を頼んだので、お代わりはしませんでしたが、美味しかったです。

愛知県は牡蠣フライにはタルタルソースが多分必須でついてきますが、
広島県民は違うんだ~とオットと少し盛り上がりました。
静岡でエビフライに辛子が付いてきたときも盛り上がったっけ。
あと、値段はお安く牡蠣の数も小鉢にも使われてて多いのですが、
かわりにフライの牡蠣のサイズがめちゃ小さい。
上手に揚がってて美味しいフライですが、生涯で食べた最小のサイズかも。







夜はお好み焼き。
最初は、「ひろしまお好み物語駅前ひろば」というところに行ったのですが、
ビルのフロアにお好み焼きの屋台がたくさん集まっているという場所で、
あまりにも暑くて、一回りしたら、オットと「暑くて無理」と意見が一致。
駅前に戻り、「福ちゃん」というお店に入りました。
これが大当たり。
ものすごく美味しかったです。




以上、広島で食べたご飯のご紹介でした。

                         
                                  
        

伯母のこと

category - 日記
2017/ 08/ 03
                 
伯母が入院して2週間が過ぎました。
最初は検査入院ということで、検査が終われば老人ホームに帰れると思っていましたが、
思った以上に病状がひどく、このまま帰れませんという説明を受け、
その後、緩和ケアにという説明も受けて、現状を理解している伯母です。

私も緩和ケア病棟の責任者お二人の説明を受け、
事態を納得した上で、緩和ケアのお世話になりたいという書面にサインしました。

今は痛みはなく、鎮痛剤は使っていません。
入院してすぐに、腸が詰まりかけているので、飲食は中止になっていまして、
点滴で生きていますが、点滴の量はとても少ないです。
肺にある、胸膜に転移していると見られ、肺に水が溜まってきたので、
あまり多く水分を入れても、肺の水が溜まりすぎてしまうだけだからです。

伯母の、死に至るまでの時間は、一生を振り返りなさいと
神様が与えてくれた時間なのではないかと私は感じています。

ピンピンコロリも、苦しみがない大往生で素晴らしいでしょうが、
一生を振り返る猶予があるというのも、怖い、辛い、という面はあっても、
ある意味では、恵といえる側面があるように思います。
私はまだそういう状況に自分がなったことがないので、
お気楽にそう思うのかもしれませんが。

私は末期がんで身内が亡くなっていくのを見守るお役目があるようです。
大姑さん、実父、実母の3人を看取ってきました。
そして今、伯母が死ぬのが怖いというのを励ましています。

ここまでくると偶然とも思えず、私はこの辛い経験を通して、
よくよく学ぶことがあるのか、前世とても人のお世話になっていて、
今生その恩返しをすることを決めてきたのか、どちらかかも?と感じています。
怪しいといわれるであろう感覚ですが、それが本当かどうかなど確かめようはないし、
自分がそれなりに納得できて、腹が据わるなら、そう感じていればいいかなって思います。

看取るのも辛いけど、そのあとも、多分とても大変でしょう。
自分の親でない場合、お葬式も納骨も家の中の物や家自体の処分も、
どれだけ大変なのかなと思うと、正直ぞっとします。
専門家に相談する予約もしています。

伯母は、平成13年に右半身麻痺が起き、その後、言語障害も出て、
電話も出来ず手紙も書けず車にも電車にも乗れないという過酷な運命になりました。
三重県で長く働き、愛知県に引っ越してきて、2年も経っていない頃で、
倒れるまでは、遠方の知り合いに割に頻繁に会いに出かけていたので、
近くの仲良しができるまでにはなっていなかったのも不運でした。

でも、過去のことをあれこれ不運だったというのは無駄なことです。
運がいいのは、その頃はすでに介護保険制度が始まっていて、
伯母はヘルパーさんをケアマネさんに派遣していただくことで、
自宅で一人暮らしを続けたいという願いを果たせたのです。

看護婦さんとして、長年人のお世話をしてきた伯母が、
定年以降は、真逆の経験をしていると考えることもできます。
人のお世話をテキパキしてきた人というのは、
逆に、お世話されるのはとても苦手なことが多いです。
伯母の今回の人生は、この両極端な経験をすることが重要ポイントだったのだろうと
多分これも怪しい感覚なのでしょうが、私はそう思います。
それはあまりに大変なことなので、私が手伝う道が予定されていたのだろう、
その経験も私の人生には重要ポイントなのだろうと思います。

伯母に、この世への恨みや執着があるようには思えません。
それが今の私には救いです。
不安や恐れはもちろんあると思います。
それを少しでも和らげることができればと願っています。

昨日の伯母は、看護婦さんに勧められて、車椅子に乗って、
ナースステーションで座って、私が以前もって行った画集を見ていました。
部屋にいなくてびっくりしてナースステーションに行ったら、
京都の猫、だったかな?その写真を見ていたのです。

伯母は特に猫好きでもなんでもないのですが、適当な写真集がなくて、
その本と、日本の絶景という写真集を持って行ったのでした。
本当は、伯母は伊勢神宮が好きでしたので、伊勢神宮の写真集とか、
お花が好きでしたので、お花の写真集など探したのですが、
重すぎず、字が少なくて、写真が大きいという今の叔母にふさわしいものが、
田舎の書店では見つからなくてその2冊にしたのでした。

昨日の帰りにも、別の書店を探したのですが、難しいですね。
写真の小さな旅行ガイドならあるんですけどね。
大きな書店にはあると思うのですが、忙しくて遠方に行けません。
昨日は日本の神社という写真集を買って帰りました。






画像が暗いですが、伯母の老人ホームの壁に飾ってあった色紙です。
伯母は須永博士さんが好きでしたので、ネット注文で、
伯母の名前とメッセージを入れていただいて、色紙を郵送していただいていました。
きちんとラッピングして、老人ホームに送ってくださり、感謝しています。

大きなものは病室に置けませんがこれならと思って、伯母の病室に持って行きました。






昨日買った本の中の伊勢神宮のページです。









元気なころ、お正月の伊勢神宮は恐ろしく混むんですが、
伯母は新年のお参りは伊勢神宮!と言って、初詣に行っていました。

あれから何十年も経ってしまったね、伯母さん。

                         
                                  
        

宮島その他  広島旅行その4

category - 日記
2017/ 08/ 02
                 
ロープウエイから降りて、帰りは送迎バスを利用することにしました。
バス乗り場は、紅葉谷公園の中にあります。
江戸時代に開拓され、紅葉が植えられたのが始まりとのことです。




でもね、この川の下は、コンクリートなのだと、ブラタモリでやっていました。
昭和20年の枕崎台風で大被害を受けたことを受け、昭和23年から2年間、
8000万円をかけて災害普及工事が行われ、この公園は美しい砂防公園となったのでした。



自然な感じの、美しい川にしか見えませんが、下はコンクリートです。
コンクリートがむき出しでは美しくないので、自然な石が上に使われており、
それらの石材は、現地にあるものを傷つけずに自然の形のまま使い、
樹木も切らないで、地元広島の庭師さんたちが、丁寧に作ったとのこと。
こんな話を聞くだけでも、広島、すごいぞ!と思ってしまいますよね。




これまで、厳島神社、大聖院、弥山の旅行記を書いてきましたが、
宮島の神社仏閣は他にもあります。

こちらは大願寺の前にある九本松で、伊藤博文が植えたということです。
一本の松が根元近くで九本に分かれています。
とてつもない存在感がありまして、圧倒されました。
画像で松の後ろにあるのが本堂です。

昔、厳島神社への参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、
大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊であった今の大願寺本堂で着替えをして、
厳島神社で参拝したとのことです。
大願寺は、厳島神社のすぐ横、徒歩1分の場所にあります。




九本松の前にあるのが龍神様。
大願寺の御本尊は、厳島弁財天様で、この弁天様にお仕えしているのが龍神様、ということらしいです。
厳島弁財天祭りというのが毎年6月17日に行われ、この時に御開帳されるそうなので、
ぜひ!という方は、来年、再来年、もしかしてもっと先の6月17日宮島へどうぞ。




部屋から写した夕暮れの景色なんですが、しっかり網戸が写っていますね!(爆)
実はミーハーと思いつつ、弥山から帰ってきた後に、厳島フクロウの森っていうところを
少しのぞいてみようと思っていたのですが、そこは夕方6時まででして、今回は無理でした。





夕食を終えてから、宿では太鼓ショーがあるとのことでしたが、
その時間、私たちは厳島神社の鳥居をくぐってくれる船に乗りました。
宿はみや離宮さん。太鼓ショーの見たい人は、最終便の船を予約すれば見られます。
船は人気があるので、事前予約をお勧めします。

翌旅行2日目は、6時半に厳島神社参拝に行きました。
早朝ですと、宿泊客と地元の方しか行けませんので、空いていますし、
何しろ清々しいです。











1日目に弥山から降りて向かったら、すでに入場時間が終わっていた千畳閣へ。
豊臣秀吉が、毎月1度お経をあげるために建立させた大経堂ですが、
完成前に秀吉が没したため、未完成のまま(板壁がないなど)の状態で現在に至っています。
さすがに千畳はないものの、857畳の広さがあるそうです。
ここに置かれていた仏像は、神仏分離令により大願寺へ遷され、ここは秀吉公を祀る豊国神社になりました。








右端に写っている方(お掃除中)が、御朱印を書いてくださいました。







千畳閣の向かい側には五重の塔が建っています。



宮島が神の島といわれるのは、島に渡る時船から見える山の姿が、
横たわる観音様に見えるからだとブラタモリでやっていました。

左側最初の凸が額、次の凸が鼻、そして唇。
こちらに詳しく載っています。→☆



行きは大鳥居に近づいてくれる時間帯のJRの船に乗りましたが、
帰りはちょうど出港時間が近かった松大汽船の船に乗りました。
行きも松大汽船でいいわ、という方は、ロープウエイとのセット券で割引料金で利用できます。

宮島にお別れして、船を降りた宮島口から、JRで広島駅に向かいました。
広島駅のコインロッカーに荷物を入れたかったので、広島駅に向かいましたが、
そんな必要ない!という方は、直接宮島から原爆ドーム方面に向かう船もあります。
世界遺産航路と呼ばれていて、予約した方がいいかと思います。
広島の路面電車がいい!という方は、JRより時間はかかりますが、それも可能です。
広島、選択肢がいっぱいあっていいですよねぇ。

その5に続きます。