FC2ブログ
2017/02/15

2017年02月15日

        

長崎旅行3日目 さるく アンゼラスの鐘の丘を訪ねて

category - 日記
2017/ 02/ 15
                 





高台に建つ旅館に別れを告げて、送迎バスで長崎駅まで向かいます。
私たちが乗った朝一番の送迎バスは、8時出発でした。

この日は朝10時から、オーダーさるくをお願いしてありました。
内容は変えることも出来ますが、そのままでお願いし、日程をこの日にしていただきました。
待ち合わせ場所は、原爆資料館の前で、10時までに資料館の見学を済ませようと思ったのです。



長崎駅からは、赤迫行の路面電車に乗りました。
1日目には逆方向の路面電車に乗っていたので、乗り場はわかっていましたし、
5分おきくらいに出るので、時刻表チェックも必要ありません。



浜口町で路面電車を降り、徒歩で原爆資料館に向かいます。



原爆資料館の前には、オバマ大統領の折り鶴が展示されていました。



中に入ると、壊れた時計が11時2分を指していました。
館内には、時計の音が流されています。

この話は、資料館を出た後にお会いしたガイドさんから聞きました。
原爆の第1目標は小倉の八幡製鉄所でした。
私は天候不良のために第2候補の長崎に投下されたと思っていましたが、
実は八幡製鉄所では、その時、コールタールを燃やしていたそうです。
コールタールを燃やす煙で煙幕を張って、八幡製鉄所を守ったわけです。
しかし、長いこと、その話は語られませんでした。

黙っていた方たちの気持ちは、わかるような気がします。
長崎の惨状を知っているので、自分たちは小倉を守った、
しかしその代わりに、長崎の人々が・・・という気持が苦しかったのではないでしょうか。




原爆投下当時、「長崎の鐘」や「この子を残して」で有名な永井隆氏は、
上の画像に写っている、長崎医科大学においででした。

長崎医科大学と附属病院では、大学関係者と学生で898名、入院患者と付添人で73名、
外来患者に関しては、カルテが消失しているので何人いて何人死亡したか、全く不明。
講義中の5つの講堂の焼け跡からは、教授は教壇に、
学生は机に着席したままの姿の遺骨が発見されたそうです。

永井隆博士については、以前のブログに少し詳しく書きましたので、
興味のある方は読んでくださると嬉しいです。

            


画像はロザリオです。
浦上天主堂には、原爆投下時、信者数十人と神父2人が告解のために集まっていて、
全員即死しました。このロザリオはそこで発見されたものです。

15000人の信者のうち、原爆で10000人が亡くなったそうです。
被害を受けた建物を残そうという主張もあったのですが、
一部の遺構を保存しただけで、建物は壊され、美しく再建されました。

残っていたら・・・アメリカやヨーロッパにはクリスチャンが多いので、
爆撃された教会を肉眼で見るのはインパクトが大きく、
15000人の信者のうち10000人が亡くなったという事実も大きく知られたことでしょう。
原爆投下は正しかったのだという主張を信じるアメリカ人の何割が、
この浦上天主堂の被害を知っているのかなと思いました。



原爆当時の地層が保護されて、見学できるようになっています。
瓦やビンの欠片(溶けて変形しています)や茶わんなどが埋まっています。
この瓦のある家の下で生活していた人たち、この茶碗でご飯を食べて・・・

原爆は大量殺人兵器です。
この爆弾を作るために莫大な費用をアメリカは投じました。
巨額を投じたからには結果を提出しなければ、という事情は、
どれくらい原爆投下に影響したのでしょうか。



原爆で亡くなられた方のお名前が奉安されています。
静かな公園で、小学校も近くです。
この上空500メートルで原爆がさく裂しました。

右に見えるのは、浦上天主堂の遺壁です。



世界各国から贈られた平和を希求する像が並んでいます。
画像はトルコから贈られたものです。



長崎の鐘と呼ばれる鐘です。
長崎が狙われたのは、多くの軍需産業の工場があったからでした。
魚雷や戦車などを作る工場で、たくさんの方が働いていました。
学徒動員、女子挺身隊で、若い方たちがたくさん働いていたことでしょう。




平和の泉という噴水の向こうに、平和祈念像が小さく見えます。

平和公園のすぐ横の川に、原爆が落ちた後、水を求めてたくさんの人が押し寄せ、
水を飲んで死んでいった人も、遺体が積み重なるほどの数だったそうです。



平和祈念の像は、昭和30年8月8日に完成したそうです。
作者の北村西望氏は長崎生まれの彫刻家の巨匠でした。
とても美しい像でした。






爆心地から700メートルの距離にあった山里小学校。
生徒は夏休み中ということで自宅にいる子供が多かったのですが、爆心地に近いので、
在籍児童数1581人のうちおよそ1300人が自宅やその周辺で死亡したと推定されています。




防空壕の跡です。もちろん元々は手作業で掘った土の防空壕でしたが、
コンクリートなどで補強され、保存されています。

原爆の落ちた時、新しい防空壕を掘っていた人たちは、爆風で叩きつけられて亡くなり、
防空壕に逃げ込んだ人たちは、多くがこの防空壕の中で亡くなったそうです。



ライトアップされていて、3つの防空壕が中でつながっているのがわかります。



このご、永井隆記念館に行き(画像はありません)、その後、
永井隆博士が音ながら執筆していた「如己堂」に来ました。 

永井博士は敬虔なカソリック信者でしたので、「己のごとく隣人を愛せよ」という意味で、
この名前をこの家につけたそうです。
わずか2畳の一部屋しかない家ですが、原爆で無一文になった永井博士のために、
浦上の人たちがお金を出し合って作ってくれました。

永井博士は、原爆で怪我をした体で、献身的に、人々の治療に携わりましたが、
治療費が出るわけではないので、無一文だったのです。

病身を押して、たくさんの本を書き、印税を人のために使いました。
税金のことを考えずに使ってしまったそうで、友人たちが、税金を払うために
奔走してくれたというエピソードも、ガイドさんに聞きました。



如己堂の中の様子です。
永井博士は白血病が進んで、腹水がたまり、内臓は腫れて、起き上がることができませんでした。
しかし、ここで寝たまま、本の執筆をしたり、わが子と過ごしたりしました。

永井博士の本を読んで、たくさんの方がお見舞いに来ました。
ヘレンケラー女史もお見舞いに来て、娘さんのカヤノさんのセーターに
コスモスをさしてくれたそうです。
訪問客のほかに、プレゼントもたくさん届きました。

まだ小さかったカヤノちゃんは、可愛いお人形などがたくさん届くので、
独り占めしたい気持ちになりました。

お父さんである永井博士は、優しく言い聞かせました。
「これはね、原爆にあって、カヤノのように
お母さんやお父さんを亡くした子供たちのために送ってくださったのだよ。
浦上には、カヤノがたくさんいるんだ。」
「人には自分のいちばんよいものをあげなさい。もし、必要な時には
神様がまた与えてくださるよ。」

そして永井博士の描いた絵の中のカヤノちゃんは、きれいな服を着ていました。
「服を買ってあげられないから、絵で描いてあげるね」
(娘よ、ここが長崎です 筒井茅乃著 くもん出版より)



浦上天主堂から原爆の爆風で飛ばされたドーム



建て直された浦上天主堂。
教会の中は撮影禁止なので画像はありません。
画像右側のドームから、12時の鐘が響きます。
このさるくは、12時の鐘をここで聞いて終わることになっていました。

        永井隆さんが作詞された山里小学校の第2校歌「あの子」


ガイドさんは、最寄り駅が見える場所まで一緒に歩いてくださり、そこでお別れしました。

こういう観光協会が関わっておいでのガイドさんと歩くことは、
私たち夫婦にとって、旅先の楽しみの一つになっています。

たいていは定年退職後に、ガイドをしようかと思い立って、
規定の講習を受け、テストを受けて合格してガイドになったご年配の方です。
たまに、もっとお若い家庭の主婦の方もおいでですが、多分それは例外です。

定年後に、何をしようかと考えた時、好きな地元に来てくれた旅行者に、
わかりやすいガイドをしてあげたいと考える方、というのがまず好きです。(笑)
健脚でないと勤まらないお仕事なので、当然ですが皆さん健脚で、
お年を召していても、すたすたと歩かれます。それがまた気持ちいいのです。
標準語で話しながらも、土地のイントネーションがあるのもいい感じですし、
地元情報が豊富なのも、話していて楽しいです。
そして何より感じる地元愛が、とってもいいんです。

今回の旅行は初日と最終日にそうした地元のご年配ガイドさん、
2日目はバスツアーでしたので、旅行会社の若い女性ガイドさんにお世話になりました。
若い女性ガイドさんも、一生懸命で、知識も豊富で、
お話のイントネーションがとっても長崎で、面白い、気持ちのいい方でしたよ。
3人のガイドさんのおかげで、旅行が何倍も楽しめて感謝しております。

長崎駅でお弁当を買い、特急かもめと新幹線、名古屋からは名鉄に乗り換えて、
懐かしいナナちゃんのいる自宅に帰ってきました。

ナナちゃんはね、最初は少しだけ拗ねていましたけれど、
すぐに甘えてきまして、べったりでしたよ。うふふ。(笑)

これで長崎旅行記は終わります。
読んでくださってありがとうございました。

シュウトメちゃんも施設で元気に過ごしていました。
懐かしい写真をたくさん持って行ったら喜んでいました。

            
スポンサーサイト