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2017/02/04

2017年02月04日

        

今日はキチジローについて

category - 日記
2017/ 02/ 04
                 
今日は友人と日帰り温泉に。
ここは初めてです。キャナルリゾート。

常連らしいマダムによると、出来て2年目だそうです。
名古屋の町の中にある天然温泉ですが、敷地も広く、
お湯も気持ちよかったです。

友人ともお風呂でいっぱいおしゃべりできて、リフレッシュしました。







この画像の後に「沈黙」の話を書くのは、何だか気が引けますが、
今日はキチジローについて少し書きたいと思います。

キチジローは、隠れキリシタンの1人で、窪塚洋介さんが演じていました。
ロドリゴとガルベ、2人の宣教師が日本に密航するのを案内する男として登場します。
そのシーンでは、キチジローは、マカオで酒浸りになっていました。

彼は生まれつき気が弱く、意志が弱いところがありました。
踏み絵を踏めと言われて、彼の家族はみんな踏みませんでしたが、
彼だけは恐ろしくて、踏み絵を踏みました。
踏まなかった家族は、藁に包まれ、生きたまま火をつけられて死んでいきました。
苦しみながら死にゆくさまを、それでも必死に見つめることだけが彼が示せた勇気でした。

キチジローは宣教師が日本に来てくれたことを喜んでいました。
自分の弱さが苦しく、告解がしたかったのです。

その後、キチジローは、その宣教師であるロドリゴの居場所を、
役人に教えてしまいます。ロドリゴは当然捕まります。
宣教師を密告すれば大金が手に入るのですが、
キチジローはお金に目がくらんだわけではありません。
彼は拷問が恐ろしく、ロドリゴが捕まれば、ロドリゴが拷問されるかもしれないと知りつつ、
それでも自分の身を守りたくて、裏切ってしまったのでした。

仲間たちが踏み絵を踏めないでいる時、キチジローは再び踏み絵を踏みます。
軽蔑の視線を感じても、恐ろしさに勝てないキチジローでした。
私も、こんな目に遭えばすぐに踏み絵を踏むと思うので、
弱くみっともないキチジローは、もしその時代、私がそこにいたとしたら、
間違いなく、私の姿でもあると思いました。

ロドリゴもガルベも、キリスト教弾圧の激しい日本へ、
覚悟を持ってくるような宣教師たちなので、
自分たちは信仰のためにいつでも死ねる、どんな苦しみにも耐えるという
気概を持っているわけで、キチジローのような男は本心から言えば嫌いです。

キリストの教えは、全ての人を愛せという教えで、それを信じているので、
そのようなキチジローであっても、告解を願われれば、
告解に対する祈りの言葉を唱えるロドリゴでしたが、
心の中には軽蔑があったのでは?という気がしました。

キチジローは嘆きの言葉を口にします。
(うろ覚えですが、こんな内容でした。違う点があるかもしれません。)
こんな時代でなかったら、自分はいいクリスチャンとして生きられた。
どうして自分はこんな時代に生まれてしまったのか。
心が弱いから、殉教はできない。自分の家族は心が強かった。
どうしたらいいのかわからない。許してほしい。

こんな時代でなかったら。
迫害を受けることなどなかったら、キチジローは神の教えを守る
善良な男だった可能性が高いだろうと思いました。
朝夕、神に感謝してよく働き、貧しい生活の中でも親切な男だったでしょう。
キリシタンたちをひどく拷問した役人たちだって、
こんな時代でなかったら、善良なお役人だったかもしれません。
「やれ」と言われて逆らったら、お前もクリスチャンか?拷問されたいか?と
自分だけでなく家族まで疑われるかもしれません。

私はもし自分が役人で、拷問しろと言われたらと想像してもやはりぞっとします。
できたら死んでもいいから拒絶したいものですが、恐ろしい死に目だと思うと、
そんな勇気も自分にはないと思わざるを得ません。
だから拷問しても仕方ないとも思えないでしょう。
自分はあんなにもひどいことをしたという責めは心の中で続くでしょう。

拷問をした役人たちは全く苦しまなかったと誰が断言できるでしょうか。
もちろん、それが正しいと疑わずに迷わず拷問した人も、
元々の残虐性を発揮できて、楽しんだ役人も、いたかもしれませんが。

時代の流れは、長崎のクリスチャンたちに残酷でした。
神さま、弱い私を許して下さいと、キチジローはたくさん祈ったでしょう。
どうか私にこのような試練を与えないでくださいとも祈ったでしょう。

彼の告解は私には、悪いことをして叱られた子供が、
お母ちゃん、ごめんなさいと泣いているような印象を受けました。
もうしないから許して、とは彼は言えないのですね。
また試練の場に立たされたら、怖くて彼は裏切ってしまうだろうから。

でも私は、踏み絵を踏まずに、藁で巻かれ、生きたまま焼かれた家族を、
眼をつむって逃げることなく、しっかりと見届けたキチジローの姿に、
彼の精いっぱいの勇気を見ました。

私はクリスチャンではありませんし、人格神の存在を感じることはないのですが、
弱虫だけど一生懸命に生きているキチジローを思うとき、
大丈夫だよ、いいんだよ、辛いことがいっぱいあったねぇと言って抱きしめてあげる、
永遠に母なるもののような神の愛が彼を包みますように、
彼が自分を責める心が、少しでも癒されますようにと祈らずにはいられませんでした。
これは多分、キリスト教の神のイメージではないですね。
長崎の貧しい農民たちは、キリストの教えに何を求めたのでしょうね。

貧しく苦しい生活を送る農民は、神さまの教えをしっかり守って生きていれば、
寿命が来たら天国に行けるという希望が、必要だったのでしょうか。
役人は偉く、農民は虫けらのように扱われるけれど、神様から見たら、
人間は誰しも、平等に大切であるというのが必要だったのでしょうか。

日本人は元々自然を神と感じて拝んできた民族です。
自然はたくさんのものを人間に与えてくれるけれど、
ひとたび荒れると、たくさんのものを人間から奪っていきます。
自然を神としてきた歴史の長い日本人が、キリストの教えを聞いたとき、
主は与え、主は奪う、という教えは受け入れやすかったかもしれません。
クリスチャンになって、過酷な運命を受け入れやすくなった人々にとっても、
このキリスト教弾圧の過酷さは、あまりに受け入れがたかったことでしょう。

厳しい生活の中、キリストの教えを聞いて明るくなって、
一生懸命に地道に生きていた農民たちの1人だったキチジロー。

神が沈黙を守っていたのは、神は運命を変える存在ではないからで、
しかし、神は私たちの中に存在して、神の目で私たちと経験を共にしている。
私はそんな風に感じました。

過酷な現実が自分の目の前に現れたら、どんなに嫌だと言っても、
それは現実として存在しています。
現代の日本だって、理不尽な理由で家族を殺された人はたくさんいます。
通り魔に、酔っ払い運転やポケモンゲームをしていた運転手に、
誰かを殺してみたかったとか、いじめが楽しいという学生たちに、
大事な家族を殺されてしまった、過酷な運命を生きる人たち。
キチジローはその不幸にプラスして、自分は弱い卑怯者だという負い目を背負っていました。

映画の視点では、神は苦しむ人の同伴者。
私はクリスチャンではないけれど、この感覚は好きです。

窪塚洋介さん、名演でしたよ。

今日の日記も長い!
この映画はすごい!

では、お休みなさい~。







今日は友人と日帰り温泉に。
ここは初めてです。キャナルリゾート。

常連らしいマダムによると、出来て2年目だそうです。
名古屋の町の中にある天然温泉ですが、敷地も広く、
お湯も気持ちよかったです。

友人ともお風呂でいっぱいおしゃべりできて、リフレッシュしました。







この画像の後に「沈黙」の話を書くのは、何だか気が引けますが、
今日はキチジローについて少し書きたいと思います。

キチジローは、隠れキリシタンの1人で、窪塚洋介さんが演じていました。
ロドリゴとガルベ、2人の宣教師が日本に密航するのを案内する男として登場します。
そのシーンでは、キチジローは、マカオで酒浸りになっていました。

彼は生まれつき気が弱く、意志が弱いところがありました。
踏み絵を踏めと言われて、彼の家族はみんな踏みませんでしたが、
彼だけは恐ろしくて、踏み絵を踏みました。
踏まなかった家族は、藁に包まれ、生きたまま火をつけられて死んでいきました。
苦しみながら死にゆくさまを、それでも必死に見つめることだけが彼が示せた勇気でした。

キチジローは宣教師が日本に来てくれたことを喜んでいました。
自分の弱さが苦しく、告解がしたかったのです。

その後、キチジローは、その宣教師であるロドリゴの居場所を、
役人に教えてしまいます。ロドリゴは当然捕まります。
宣教師を密告すれば大金が手に入るのですが、
キチジローはお金に目がくらんだわけではありません。
彼は拷問が恐ろしく、ロドリゴが捕まれば、ロドリゴが拷問されるかもしれないと知りつつ、
それでも自分の身を守りたくて、裏切ってしまったのでした。

仲間たちが踏み絵を踏めないでいる時、キチジローは再び踏み絵を踏みます。
軽蔑の視線を感じても、恐ろしさに勝てないキチジローでした。
私も、こんな目に遭えばすぐに踏み絵を踏むと思うので、
弱くみっともないキチジローは、もしその時代、私がそこにいたとしたら、
間違いなく、私の姿でもあると思いました。

ロドリゴもガルベも、キリスト教弾圧の激しい日本へ、
覚悟を持ってくるような宣教師たちなので、
自分たちは信仰のためにいつでも死ねる、どんな苦しみにも耐えるという
気概を持っているわけで、キチジローのような男は本心から言えば嫌いです。

キリストの教えは、全ての人を愛せという教えで、それを信じているので、
そのようなキチジローであっても、告解を願われれば、
告解に対する祈りの言葉を唱えるロドリゴでしたが、
心の中には軽蔑があったのでは?という気がしました。

キチジローは嘆きの言葉を口にします。
(うろ覚えですが、こんな内容でした。違う点があるかもしれません。)
こんな時代でなかったら、自分はいいクリスチャンとして生きられた。
どうして自分はこんな時代に生まれてしまったのか。
心が弱いから、殉教はできない。自分の家族は心が強かった。
どうしたらいいのかわからない。許してほしい。

こんな時代でなかったら。
迫害を受けることなどなかったら、キチジローは神の教えを守る
善良な男だった可能性が高いだろうと思いました。
朝夕、神に感謝してよく働き、貧しい生活の中でも親切な男だったでしょう。
キリシタンたちをひどく拷問した役人たちだって、
こんな時代でなかったら、善良なお役人だったかもしれません。
「やれ」と言われて逆らったら、お前もクリスチャンか?拷問されたいか?と
自分だけでなく家族まで疑われるかもしれません。

私はもし自分が役人で、拷問しろと言われたらと想像してもやはりぞっとします。
できたら死んでもいいから拒絶したいものですが、恐ろしい死に目だと思うと、
そんな勇気も自分にはないと思わざるを得ません。
だから拷問しても仕方ないとも思えないでしょう。
自分はあんなにもひどいことをしたという責めは心の中で続くでしょう。

拷問をした役人たちは全く苦しまなかったと誰が断言できるでしょうか。
もちろん、それが正しいと疑わずに迷わず拷問した人も、
元々の残虐性を発揮できて、楽しんだ役人も、いたかもしれませんが。

時代の流れは、長崎のクリスチャンたちに残酷でした。
神さま、弱い私を許して下さいと、キチジローはたくさん祈ったでしょう。
どうか私にこのような試練を与えないでくださいとも祈ったでしょう。

彼の告解は私には、悪いことをして叱られた子供が、
お母ちゃん、ごめんなさいと泣いているような印象を受けました。
もうしないから許して、とは彼は言えないのですね。
また試練の場に立たされたら、怖くて彼は裏切ってしまうだろうから。

でも私は、踏み絵を踏まずに、藁で巻かれ、生きたまま焼かれた家族を、
眼をつむって逃げることなく、しっかりと見届けたキチジローの姿に、
彼の精いっぱいの勇気を見ました。

私はクリスチャンではありませんし、人格神の存在を感じることはないのですが、
弱虫だけど一生懸命に生きているキチジローを思うとき、
大丈夫だよ、いいんだよ、辛いことがいっぱいあったねぇと言って抱きしめてあげる、
永遠に母なるもののような神の愛が彼を包みますように、
彼が自分を責める心が、少しでも癒されますようにと祈らずにはいられませんでした。
これは多分、キリスト教の神のイメージではないですね。
長崎の貧しい農民たちは、キリストの教えに何を求めたのでしょうね。

貧しく苦しい生活を送る農民は、神さまの教えをしっかり守って生きていれば、
寿命が来たら天国に行けるという希望が、必要だったのでしょうか。
役人は偉く、農民は虫けらのように扱われるけれど、神様から見たら、
人間は誰しも、平等に大切であるというのが必要だったのでしょうか。

日本人は元々自然を神と感じて拝んできた民族です。
自然はたくさんのものを人間に与えてくれるけれど、
ひとたび荒れると、たくさんのものを人間から奪っていきます。
自然を神としてきた歴史の長い日本人が、キリストの教えを聞いたとき、
主は与え、主は奪う、という教えは受け入れやすかったかもしれません。
クリスチャンになって、過酷な運命を受け入れやすくなった人々にとっても、
このキリスト教弾圧の過酷さは、あまりに受け入れがたかったことでしょう。

厳しい生活の中、キリストの教えを聞いて明るくなって、
一生懸命に地道に生きていた農民たちの1人だったキチジロー。

神が沈黙を守っていたのは、神は運命を変える存在ではないからで、
しかし、神は私たちの中に存在して、神の目で私たちと経験を共にしている。
私はそんな風に感じました。

過酷な現実が自分の目の前に現れたら、どんなに嫌だと言っても、
それは現実として存在しています。
現代の日本だって、理不尽な理由で家族を殺された人はたくさんいます。
通り魔に、酔っ払い運転やポケモンゲームをしていた運転手に、
誰かを殺してみたかったとか、いじめが楽しいという学生たちに、
大事な家族を殺されてしまった、過酷な運命を生きる人たち。
キチジローはその不幸にプラスして、自分は弱い卑怯者だという負い目を背負っていました。

映画の視点では、神は苦しむ人の同伴者。
私はクリスチャンではないけれど、この感覚は好きです。

窪塚洋介さん、名演でしたよ。

今日の日記も長い!
この映画はすごい!

では、おやすみなさい







            
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映画「沈黙」を見てきました  ネタバレ注意

category - 日記
2017/ 02/ 04
                 
レイトショーで「沈黙」を見てきました。
とても完成度の高い映画で、3時間はあっという間。
拷問シーンが苦手だからと鑑賞をためらっている方、多分大丈夫です。
素晴らしい映画でした。

ものすごくはしょってあらすじを書きますと・・・

日本に派遣されたポルトガルのイエスズ会の重鎮、フェレイラ神父が、
拷問を受けて棄教し、日本で暮らしているという情報がありました。
フェレイラ神父を尊敬する2人の神父は、どうしてもこの情報は信用できず、
師の不名誉を晴らしたいと願い、途中で出会ったキチジローの案内で日本に潜入します。

2人の宣教師、ロドリゴとガルペは、隠れキリシタンたちに歓迎されます。
しかし、日本のクリスチャン迫害・拷問は想像以上に激しいものでした。
若く理想に燃える2人の神父は、殉教を恐れはしないと意気込んでいました。

2人が考えた迫害は、自分自身の受難でした。
どんな苦しみを受けても神への信仰を貫いてみせると彼らは思ったのでした。

しかし役人が考えた効果的な迫害は、宣教師が棄教しないと、
既に棄教した日本の信者たちを、拷問し続け、殺し続ける、というものでした。

神父の1人は、殺されそうな信者を助けようとして、自分も死んでいきます。
残された神父は、穴吊りと呼ばれる拷問を5人の信者が受けるのを見せられ、
お前が棄教しないと、この拷問は終わらないと言われるのでした。

尊敬していた神父、フェレイラが棄教したのも、同様の選択を強いられた結果でした。
フェレイラは、自分が拷問されて苦しさのあまり棄教したのではなかったのです。
拷問される日本人の信者たちのうめき声を聞き続け、必死に神に祈りました。
しかし神は拷問される信者たちを救ってくれません。

耳の後ろに小さな穴を開けられて逆さ吊りにすると、
血が少しずつ出るので、頭に血が上って死ぬのを防ぎ、なかなか死ねません。
信者たちは、あまりの苦しみに、棄教しますと言うのですが、
宣教師ロドリゴが棄教すると言うまで、拷問は続きます。
宣教師自身がキリスト教を捨てたという事実が、クリスチャンの力を奪うのに効果的だからです。
信仰を貫く宣教師を拷問して、宣教師が殉教したら、逆効果だからです。

フェレイラは弟子であったロドリゴに言います。
拷問を受けるあの人たちを救うことができるのはおまえだけだ、
キリストがこの場にいたら、あの人たちのために、迷わずに転んだだろうと。

ロドリゴは踏み絵を踏みました。
その時、イエスの声を聞いた気がしました。
踏むがいい。お前の足の痛さを、この私が一番よく知っている。

ロドリゴには平和な生活が保障されました。
江戸で死んだ男の名前を受け継ぎ、死んだ男の妻子を受け継ぎ、
しばしば棄教の宣誓書を書かされ、踏み絵を踏まされましたが、
一切抵抗はしませんでした。

あらすじだけ書いても、結構な時間になりました。
そろそろ寝ることにします、続きはまた後日。