FC2ブログ

2015年10月16日

        

トイレ介護時のシュウトメちゃんとの会話と澤木禅師の言葉

category - 日記
2015/ 10/ 16
                 
シュウトメちゃんのトイレの介護などしていると、
本当に足が弱ってきているのを感じます。

ポータブルトイレの便器に座るためには、車椅子から立ち上がり、
便器の方向に歩いて向きを変えなくてはいけません。
ベッドの真横なんですが、これが太ももが震えるほど大変な力がいる様子。

今年の春には、そんなことに苦労などしていませんでしたが、
今は、それが運動と呼べるほどの動作になっています。

そんな衰えを自分で罵るような言葉も出るので、気の毒ですが、
自分をののしっている間は、まだ、シュウトメちゃんのパワーがあるのかもと
思い直したりしています。

「おばあちゃん、昔の人は、ポータブルトイレなんかなかったんだよ。
トイレだって和式だし、足が弱ったらすぐにオムツになっちゃったんだよ。
それもさらしの布で作ったオムツ。おばあちゃん、知ってるでしょ?」

「わしなんか、昔だったらとっくの昔に寝たきりだなぁ。」

「昔、バリアフリーの部屋に電動ベッドがあって、横にポータブルトイレがある
部屋に住んでいるおばあさんなんて、その辺にいなかったもんね。」

「そんなおだいじんは聞いたことないな」

おだいじんって、女性にも使うのかな?とふと思いましたが、
そんなことはどうでもいいよね。

シュウトメちゃんとの会話。
私の話に合わせてくれただけで、もしかしたら全く慰められていないかもしれないけど、
人と話して、笑い話にすると、ちょっと気楽になるような気がします。



シュウトメちゃんは気が強いところもあるけれど、すごい心配性でもあり、
くよくよといつまでも同じことを考える弱気なところもある人です。
もしかしたら、こうやって、徐々に出来ることが出来なくなっていく老い方をしているのは、
いつの日にか、死を迎える際に、生への執着を減らすという意味で、
シュウトメちゃんにとって、いい老い方かもしれません。

本人がそう思えれば、もしかしてその考えは救いになるかもしれませんが、
嫁がそんな事を言えば、死ねと言っているのか?!と誤解されかねないし、
こんな話はシュウトメちゃんにはもちろんしません。

こんなことも出来なくなった自分に怒りが湧く、と言うシュウトメちゃん。
受け入れるって難しいよね。
排せつって、人に見られたくない行為なのに、
それに手助けが必要になって、助けてくれるのは血も繋がっていない嫁で、
それはきっととても嫌なことだと思います。
出来たら避けたいけれど、避けられないのは、自分の体が不自由だから。
その現状を受け入れること・・・私がシュウトメちゃんならできるんだろうか?

自分の現状を受け入れられることって、大事なことだと思います。
それが難しいから、人は悩むのでしょう。



迷いから抜けて、広い世界に行けそうな気持ちになる言葉の数々。

澤木禅師の言葉から、抜粋してみました。
どの言葉も本当に・・・すごい!
元気が出ます。



乞食でも笑うことがあり、億万長者でも泣くことがある。ナーニ、たいしたことはないんじゃ。

人間はいつの間にか「私」が入ってしまう。「ああよかった」何がよかったのかといえば「私がよかった」というだけの話じゃ。

なんやら人間にはいつも忘れられぬものがある。金がありやがると金があると思い。頭がいいと頭がいいと思い、器量がいいと器量がいいと思って忘れられぬ。そしてこれが門口に出ばって邪魔しよる。

「これでよい」という世界があるものではない。それなのにどこぞに「これでいい」という世界があるかと思うて、それを求めてウロウロ歩きまわる。ウロウロしたって仕様がないやないか。それじゃ泣き寝入りするか。そうじゃない。ウロウロしない世界にドカッと坐っておるこっちゃ。

仏道というものは人の真似の尽きた処である。これは人から習うものじゃない。自己に向かって工夫するものである。ご安心も人の真似せんならんことはない。悟りも人の通りやらんならんことはない。ここはここぎり、今は今ぎり。師匠の悟りを借りて来てもしようがない。仏からの貰いもので日暮らしをするのではない。自分自身のものである。仏道修行ということは自己の生き方を発明すること、自己の生活を創造することである。

人間の値打ちは銭の取り高の多い少ないによって決まるものじゃない。そうすれば結局どうするのが本当なのか。真の自己を見出さねばならん。この欲求の起こるのが人間の最高の幸福である。つまり自己に親しむ。これより他にはないのじゃ。

これで人間の心というものは一人きりになればなるほど、カニが泡を吹くようにいつも何かブスブスブスといぶっているものである。人間は自分のことなら自分きりでよさそうであるのに、他人に認めてもらえないと自信をなくして自分を卑下してしまうものである。だから自分が自分に成りきっていくということは容易なことではない。正しい理念、正しい信念をもって、ブクブクブクとカニが泡を吹いてくすぶっているような、相手のない真っ只中で坐禅することができて初めて真実が現成するのだ。

この世界はようしたもので、自分一人の気の持ちようと覚悟次第でどうにでもなる。

われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさした人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を生み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ。

めいめいが世界である。自分が死ぬと世界が死に、世界が滅する。オレが生まれたときにこの世界が生まれたのだ。するとお前が死んでもまだこの世界は残っているのではないかという。いや、オレの分はもう死んだというのだね。つまり人人(にんにん)はそのままで何の不足もない完全無欠なものである。この完結した自分を会得するのが仏道である。

この世の中はいずれにしても大したものではない。金持ちと貧乏、高官と下級官吏、どちらにしても飯を食って糞をするだけである。ここで一番思い切って、人生という川にパッと自分から飛び込む。無目的に落ち込んでアップアップやって息を切らすか、ウワーと一番飛び込むか、これだけの違いである。これが人生を遊ぶのである。

なあに世の中に幸福もなければ不幸もない。夢のなかで別嬪に惚れられておるか、振られておるかというだけの違いである。覚めてみると何もない。ああうそだった。


            
スポンサーサイト