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2015年07月23日

        

こんなに社会が昇れ昇れと言っている階段を、昇れない自分は情けないという思いを自分の中に見ること

category - 日記
2015/ 07/ 23
                 
世の中には、瞬時に適切な判断を下し、てきぱきと効率よく動き、
アホな失敗などめったにしないという人種がいます。

私と友人は、そこから遠い世界に生息するイキモノで、
そうした特質は、昔からありました。
努力が足りない、注意が足りないと恥じていました。
昔はもっと上手に隠せましたが、今はもう隠しようがない感じ?

加齢により、適切・臨機応変・てきぱき組の人たちとの距離は、
更に加速を見せています。
でも友人と「努力不足・注意不足というより生まれ持ってきたもの」だよねと
自虐というより、心からそう感じて、話をしました。

「あれあれ??」「しまった!!」
「あの時はこういえばよかったんだ」
「うっかり忘れてた」
こういう言葉と、親しくなりたくないのに、親和度が増していて、
このまま呆けていきたくないなぁという不安を抱えています。

こういう言葉と縁のない人っていますね。
仕事が出来る人、です。

自分が難なくできるので、出来ない人が理解できません。
努力不足なんだとしか思えないでしょう。
それはそれで無理ないのです。

何やってんだよ!という言動がきっぱり出る人と、やんわりしか出ない人がいます。
その非難を感じてしまうので、凹むよねという話もしました。

私や友人の年代では、皆さん衰えを感じ、不安も感じていることが多いので、
そうはいないけど、というか、見ていると似たようなドジをしでかしているけれど、
若い人は残酷だよね、などと話しました。

悪い人じゃないの。怠け者から遠いところにいる、
気配りのできる、よく働く気持ちのいい人たち。

私はそういう人たち、好きですよ。
勉強になります。
(そうか、この人は、ABCだけじゃなくて、DEFもいつも視野に入れてる)など、
自分の欠落しているポイントを見せてくれてありがたいです。



でも、できたらそっちのグループに属したいんだけど、
能力的に難しい人の挫折感は理解できないんだろうなぁ、って話しました。

どちらの人種も、ある程度のパーセンテージ存在しているのだと思います。
大多数の人は、その中間のノーマルな場所にいるというだけ。

私や友人寄りで、その度合いがもっと激しい人たちは、
今までの時代よりも、もっともっとそういう能力を求められる現代社会で、
「ダメじゃん!」「使えないヤツ!」という烙印を押されて、
自分も自分がダメで使えないと思いこんで、
暗い気持ちで引きこもったりしているんだろうか・・・。
それはとても残酷なことだし、そういう人が増えていること自体が、
社会への警鐘となっているのかもしれない・・・。

瞬時に適切な判断を下し、てきぱきと効率よく動ける人は確かに素晴らしいけれど、
違う特質を持って生まれた人はダメなのか?
日本社会は、そういう価値観で動き続けてきたから、
孤独な人が増え、鬱や自殺が増え、いじめが増えて、
閉塞感が漂っているのではないのか・・・・。



私の好きな賢者テラさんは、大学を出て、就職して、一生懸命働きましたが、
あれもこれもいろんなことに目を配り、適切な判断と行動をして、
後輩の指導もできるかどうかという点で、難しかったため、リストラされました。
その後、受診して、発達障害がわかり、障がい者の施設で働くこともしましたが、
若い指導のお姉さんが、子供にわかりやすく教えるように、
簡単な仕事を指導する中で、あまりにみじめになり、引きこもり生活に入りました。
ニートになって1年半、ほぼ家を出なかったそうです。
久しぶりに外に出て、人生が変わるようなことが起きたそうですが・・
詳しいことはテラさんの以前のブログに書いてあります → 世情

発達障害というのは、いろいろな能力についてのアンバランスが激しい状態なので、
全体に全部の能力が低いというわけではなく、
たくさんのことを欠けなくこなすことができないのだと思います。
能力の凸凹は誰にでもありますが、凸凹が激しい人に向く職場は少ないでしょう。
凸を生かせる職場に出会った人は幸いですが、
そうでない人の方が多いに決まってます。

それについて私に出来ることなどないのですけど、
臨機応変に、適切な言動がとれ、効率的に動ける人は
資本社会のニーズに合っていていいのですが、
それを突き詰めている社会が、鬱や自殺を増やしているのも事実です。
出来る人だって、もっともっとと要求されて鬱になっているのが現状。

それだけが◎で、普通は〇、それ以下は×という価値観を
自分の中から洗い流す作業を、淡々としていこうと思います。
私や友人みたいな人種は、その役割でそういう人種に生まれてきたのかもしれません。
個人的には、ホ・オポノポノの言葉がしっくりきます。
 
私の中には、臨機応変に効率的にてきぱき正確に動けることが素晴らしく、
それが出来ないのはダメだという価値観があります。
でも本当はこの世にダメな人などいません。
それについて祈ります。
ごめんなさい
許して下さい
愛しています
ありがとう



これは家に帰ってからの連想ですが、「べてるの家」という施設が北海道にあるんです。
精神障害の方の施設です。
田口ランディさんが何年も前に、こんなコラムを書かれていました。この文章を読んで、
私はとてもハッとしましたし、その通りだと感じました。
友人に会って話していた時は、この文章を思い出さずにいたので、
このことについて話せなくて、振り返るとちょっと残念です。


締めくくりに、上のリンクのランディさんの文章を一部抜粋して青字にしました。

「こんなに社会が昇れ昇れと言っている階段を登れない自分は情けない、
昇らなければと相当粘って精神を病む」という指摘が胸に沁みました。

病気(べてるの家なので精神病)になるという体験を強いられる人たちは
「自分とは何か」を知るために選ばれた人たち。


勝ち組、負け組っていうのも、昇れているひとは勝ち、
昇れない人は負けという価値観なのかも。
いじめる人は、自分は昇れているのか不安なので、
お前は昇れていないぞと人を貶めることで安心したいのかも。
その社会を変えていくには、社会を構成する一人一人が、
意識を変えていくしかないのかもしれないと感じました。


なんらかの精神的な病を発病してべてるの家に集まって来ている人たちは、
たぶん、必死になって「降りたくない、降りてはいけない」と
階段にしがみついていた人たちなのである。
こんなに社会が昇れ昇れと言っている階段を、昇れない自分は情けない、
昇らなければいけない、だから昇るのだ。
降りてはダメだと、相当にねばってきたのだ。

でも、社会が望む生き方は、彼らの心の内側からあふれ出してくる
「自分らしい生き方」と対立してしまい、その対立によって
自分の内面が引き裂かれてしまい、どうしようもなくなって
精神病として発露してきたのである。
ほんとうの自分を生きる……ということがどういうことなのか、
多くの人はわからないし、私もわからなかった。
自分は、ほんとうの自分を生きているように思い込んでいるし、
それで、案外とうまくやってしまえれば、一生
社会が決めた価値観に添って生きることを不自然とは思わない。

だから、自分をたいせつに生きる……という点から見れば、
べてるの家の人たちは「選ばれた人たち」だろうと思う。
おおよそ、病気になるという体験を強いられる人たちは
「自分とはなにか」を知ることのために、選ばれた人たちなのだ。
いったい誰から選ばれたのだ?と質問されれば、
私は「人類から」としか答えようがない。
神などではなく、人間という意識をもった種のなかで選ばれた人たちなのだと思う。

  中略

選ばれる……ということは、受難なのである。
それは、苦しむ者として選ばれたということなのだ。
人は一人ひとり違う。バラバラに生まれてバラバラに死ぬ。
一人として同じ人はいないけれど、おおむね同じ環境に生まれれば、
同じ環境で同じようなシステムの中で育てられる。

   中略

内的な葛藤に興味のない人……というか、
あまりそれを経験しないでもよい人生を送って来れた人たちは、
自分の自我を揺るがすような葛藤を怖れるがゆえに
他者を批判して叩きつぶすことがよくある。
怖れから生まれる怒りという感情は、とかく正義と結びつきやすい、
人間の心の恐るべき影だ……。

  中略

私が彼らから学んだのは「私は降りたくない」と思っているということであり、
それゆえに彼らの仲間だった……という自分自身の二重性だった。
「降りましょう、降りましょう!」と言って降りられる人、
「降りるのはすばらしい」と言って自分とは関係ないと思っている人、
そのような人たちにとっては、べてるは全くどうでもいいことなのだと思う。
            
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