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2014年06月25日

        

八木重吉さんと奥さんの登美子さんの話

category - 日記
2014/ 06/ 25
                 
八木重吉は明治生まれの詩人です。
東京で、農家の次男として生まれました。
学生時代、クリスチャンになって洗礼を受けています。
わずか30歳で亡くなった詩人です。

大正10年 23歳 現在の神戸大学に英語教師として赴きます。
       陸軍の6週間現役兵として入営、短歌や詩を書くようになりました。

大正11年 24歳 熱心なクリスチャン、島田とみと結婚。
       2人の出会いは、登美子14歳、重吉22歳の時で、
       重吉が一目ぼれしたらしいです。

大正12年 25歳 詩作が増え、手製の小詩集を多く作ります。
       長女、桃子ちゃんが生まれます。

大正13年 26歳 長男 陽二くんが生まれます。

大正14年 27歳 千葉県に転任。親せきの作家加藤武雄氏の尽力により、
            詩集「秋の瞳」が刊行されます。
        
大正15年 28歳 結核と診断され、神奈川で入院。
           その後茅ヶ崎に家を借り自宅療養に入ります。

昭和2年 29歳 10月26日召天。

昭和3年 加藤武雄氏の尽力により、詩集「貧しき信徒」が刊行される。

昭和17年 加藤武雄・草野心平・佐藤惣之助・八木登美子(奥さんです)らによって
       山雅房版 八木重吉詩集が刊行される

登美子さんは、防空壕の中に逃げるときも遺作を必死で持ち込み、
重吉と親交のあった詩人、知り合い、出版関係の人々の間を奔走しました。
そのうち「八木重吉の奥さんが原稿をもって歩いて苦労しているので、
詩集を出せないだろうか」という声が出始めました。

重吉の名が名声を得るのは、その詩が偶然創元社に関係していた
小林秀雄の目にふれたことからだそうです。

昭和23年に、草野心平の編集により、創元選書版 八木重吉詩集が、
昭和26年には、創元文庫版も刊行されて、多くの目にふれるようになりました。

詩作生活は、23歳から亡くなるまでの5~6年。
可愛がっていた子供を残して亡くなりました。
その2人の子も、同じく結核で1937年に桃子ちゃんが14歳で、
1940年には陽二くんが15歳で相次いで夭逝しています。

残された登美子夫人は、後に43歳で、歌人の吉野秀雄と再婚しました。
1999年、94歳で亡くなりました。
(吉野秀雄氏も登美子さんが63歳の時に亡くなります)


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 桃子よ

もも子よ
おまえがぐずってしかたないとき
わたしはおまえに げんこつをくれる
だが 桃子
お父さんの命が要るときがあったら
いつでもおまえにあげる

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 陽二よ

なんという いたずらっ児だ
陽二 おまえは 豚のようなやつだ
ときどき うっちゃりたくなる
でも陽二よ
お父さんはおまえのためにいつでも命をなげだすよ

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 冬

妻は陽二を抱いて
私は桃子の手をひっぱって外に出た
だれも見ていない森はずれの日だまりへきて
みんなして踊ってあそんだ

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 妻よ

わらいこけている日でも
わたしの泪をかんじてくれ
いきどおっている日でも
わたしのあたたかみをかんじてくれ


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 春

朝眼を醒まして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
ぼろぼろと涙が出てとまらなかった

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 静かな 焔


各つの 木に
各つの 影
木は
静かな ほのお

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 赤ん坊が わらふ

赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ

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 草に すわる


わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる

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 雨の日

雨が すきか
わたしはすきだ
うたを うたおう


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 光

ひかりとあそびたい
わらったり
哭いたり
つきとばしあったりしてあそびたい 


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 ふるさとの川

ふるさとの川よ
ふるさとの川よ
よい音をたててながれているだろう
(母上のしろい足をひたすこともあるだろう)

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亡くなる前の重吉は、妻に会いたくて、会いに来てほしいと頼み、
来れば妻が家に残してきた子どもたちが気になって、
早く帰ってやれと言ったそうです。

「桃子と陽二は成人するまで
必ず一所に育ててもらい度い」
「二人を人間として
よき人間に育ててくれ
頼む」

重吉が死の直前にノートに書き綴ったノートにあった言葉です。
妻子を残して逝かねばならない切なさはどれほどだったか。

重吉が亡くなった時、登美子夫人はまだ22歳でした。
子どもを食べさせていかねばなりません。

最初は、まだ子供が小さいので、勤めに出ることはせず、
家の土間を利用して、母と小さなおもちゃ屋を開きながら、
洋裁学校に通って、手に職をつけ、縫い仕事などを貰ってきました。

しかし、親子3人が食べていけるお金は稼げず、
新しくできた百貨店で、朝9時から夜9時まで働きました。
2人とも、とてもいい子に育って行ったそうです。

しかし、桃子ちゃんは中学2年で結核を発症しました。
入院するお金がなく、登美子さんは、わが子が自宅で弱っていくのを
見守ることしか出来なかったのでした。

10年間働いた百貨店を辞めて、転職し、残された陽二くんと
一緒の時間を大事に生きていた登美子さんを、
更なる試練が襲います。

桃子ちゃんの死後2年、少し落ち着いた頃に、
今度は陽二くんが結核にかかってしまいました。
陽二くんは、15歳で、大喀血をして、亡くなってしまいました。

夫をなくし、長女を亡くし、最後に長男も亡くした登美子さんは、
生きてゆく気力も失せ、虚ろな日々を送っていました。

そんなある日、夫が書き残したある詩が、登美子さんの目に留まります。

 妻よ

わらいこけている日でも
わたしの泪をかんじてくれ
いきどおっている日でも
わたしのあたたかみをかんじてくれ

桃子ちゃんと陽二くんが成人したら、登美子さんと3人で、
八木重吉の全集を作ろうと話し合っていたそうです。

重吉がかつて入院していた茅ヶ崎の病院に、
住み込みで働くことになった登美子さんは、
詩集を出そうと奔走するようになります。

陽二くんが亡くなって2年後、戦時中の統制下のため
部数こそ少なく500部ではありましたが、
登美子さんの念願の詩集が出版されました。

そして、登美子さんが78歳の時、遂に筑摩書房から
「八木重吉全集」が出版されました。

そこで登美子は「感謝」と題する一文を寄稿しています。


「昭和2年10月26日早暁、八木重吉は数え年三十歳で、余りにも早く昇天してしまいました。
この朝は実に美しい朝焼けであったと憶えています。
あれからもう55年経ちました。
私は平凡な女で、八木の全集を編むこともかなわず、年老いてしまいましたが、
いろいろな方々のご尽力により、いよいよ出ることになりました。
こんなありがたいことはありません。
毎年大学の卒業論文に「八木重吉」を書く学生が私を訪ねて来られますが、
この全集が出版されたことにより、老いた私がいつこの世を去っても、
八木のすべてをわかっていただけるので、本当に安心しました。
この「八木重吉全集」がいついつまでも多くの人に読み継がれますようにと、
私はひたすら祈り続けております。」(文中中略あり)
            
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