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2013/12/07

2013年12月07日

        

明治村その1 北里柴三郎氏に思いを馳せました編

category - 日記
2013/ 12/ 07
                 
明治村は高速道路を使うと、自宅から40分ほど。
今回はオットと行ってきました。

明治村は、明治の建築物を集めた博物館です。
敷地は100万平方メートルという広大なものです。

建築家・谷口吉郎博士が、鹿鳴館が壊されるのを見ました。
その人は毎日、帝国ホテルと鹿鳴館という、時代を象徴する
美しい建物を眺めて、通勤していたそうです。
ある日、鹿鳴館が壊され、その場所に新たに建ったのは
風情のないコンクリートの建物でした。


そのことに衝撃を受けた谷口吉郎博士は、美しい明治時代の建物を
このまま壊すにまかせてはいけないという気持ちに駆られました。

何とか、そういう建築物を集めた場所を作りたいと
関東地区の政財界人に声をかけたのですが、
大金が必要で、採算を考えると無理だとの結論が出ました。

谷口吉郎博士は、旧制第四高等学校同窓生であった
土川元夫氏(元名古屋鉄道株式会社会長)にその話をしました。
この話に共感した土川元夫氏の賛同のもとに
明治村が創設されたということです。

日本各地から、明治時代の建物が移築されてきています。
その管理や維持がどれほどコストのかかることか。
そういう問題を乗り越えて、明治村が存続していることは
素晴らしい事だといつも感じます。


ボランティアの方たちによる案内もあるのですよ。今回、3人の方にお世話になりました。




公衆電話は「自働電話」と呼ばれたそうです。
電話の最初に「もしもし」と言いますよね?
あの語源を教わりました。
電話というのは、特別の、ものすごいものだったので、
普通の話し方ではなく、とてもかしこまって話したそうです。
「申し上げます」みたいな感じで。
それが「申す 申す」→「もしもし」になったそうですよ。




北里柴三郎研究所

破傷風菌純培養法と破傷風菌抗毒素の発見で有名ですが、
いいお話を聞いてきました。

北里柴三郎は、熊本県出身、東大医学部(の前身)で学び、
明治19年からドイツのコッホ研究所で学びました。
当時、コッホはパスツールと並ぶ医学界の巨人でした。

最初は日本からドイツ語が話せる人が来たんだなという程度で、
全く期待されておらず、指導も弟子がしていましたが、
北里氏は、朝早くから夜遅くまで、誰よりも熱心に勉強し、
コッホ氏もやがて、愛弟子として育てるようになりました。

あまりに優秀で勤勉だったので、最初、6年間の約束で
北里氏を預かったコッホ氏は、日本に帰らずに
ここで世界のために研究するようにと言ったそうです。
しかし、北里氏は、自分は日本のためにここに来ました、
日本の医学の進歩のために帰りたいと言って帰国したそうです。


帰宅してから調べた所、コッホ氏の勧めをけったばかりでなく、
アメリカなどは、年額40万円(現在の価値で約40憶円)の研究費と
年額4万円(約4億円)の報酬を提示したそうです。
それも断って日本に帰国しましたが、日本での扱いは散々だったようです。


実は、留学直前に緒方正規(当時東大医学部講師)から細菌の扱い方を習いました。
この緒方は北里が留学したその年に「脚気菌」を発見したと発表しました
(当時日本では年間3万人が脚気で死亡するという深刻な状況でした)
留学中の北里は、緒方の発見した「脚気菌」について実験を行い
「脚気とは無関係である」という論文を発表します。

これが弟子が師に逆らったという猛攻撃を受ける原因になりました。


日清・日露戦争では脚気によって3万人を超える陸軍兵士を死亡させた上、
脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した鈴木梅太郎を散々批判し、
彼のノーベル賞受賞のチャンスをもつぶした当時の日本の医学会。

内務省は、このままでは北里が国外に去ってしまうと、
感染症研究所の設立計画を閣議に提出しますが、廃案にされてしまいます。
そこで内務省はOBを介し福澤諭吉に助けを求めました。

福澤諭吉は、すぐれた学者をを無為に置くのは国家の恥だと、
自分の所有地を提供し私財を投じて研究所を建設してしまいます。


福沢の友人、森村市左衛門(TOTO、INAX、日本碍子などの創始者)が
研究設備や機器の購入代金を寄付しました。

こうして日本車初の伝染病研究所は民間の力によってスタートし、
やがて、コッホ研究所、パスツール研究所と並んで、
世界3大研究所の一つと称されるようになるのです。


1894年、ペストが流行している香港に内務省から派遣され、
到着2日後にはペスト菌を発見してイギリスの雑誌に発表、
コッホの追試によって間違いなくペスト菌と確認されました。

北里のペスト菌発見という業績を、世界各国は絶賛します。
しかし、日本では北里は「忘恩の輩」です。
北里の発見したのはペスト菌ではないと非難する論文が
科学的証拠も無しに次々と発表されました。森鵬外もその一人でした。


こうして北里が日本で散々叩かれている最中、ノーベル賞が誕生します。
コッホの弟子であるベーリングが第一回のノーベル医学生理学賞を獲得。
ベーリングの研究は北里の破傷風研究の二番煎じに過ぎませんでした。

ベーリングにはドイツの国を挙げての応援があったのに対し、
北里は国を挙げて足を引っ張られていたという決定的な違いがありました。

1914年、北里の伝染病研究所は突然東大に乗っ取られ、
北里以下、所員全員は辞表を叩きつけて伝染病研究所を去ることになります。
しかし、北里は北里大学の創立、慶應大学医学部初代学部長就任と活躍を続け、
1931年に78歳で亡くなりました。

ここを引用させていただいています。詳しいことを知りたい方はぜひ原文を。

http://www.iph.pref.hokkaido.jp/charivari/2007_01/2007_01.htm


今日のkoalaの日記、珍しく、ためになりますね~。(笑)
日本人の偉大さと卑小さを同時に感じるエピソードでした。




北里研究所の廊下は南向きに作られていて明るくきれいです。
顕微鏡を使った研究には、日の光は強すぎて向かないので。




破傷風菌だけの培養は不可能と言われてきましたが、成功。
その後「日本の医学の発展にために尽くしたい」と帰国し、
活躍を続けた偉大な研究者に、日本の権力が罵声を浴びせ続けた理由が、
科学者として間違った発表をした先輩の間違いを指摘したことだと考えると
やるせない気持ちになります。

最後まで日本に留まり、日本の医学に貢献してきたその姿勢に感動しました。
このようなすぐれた学者をを無為に置くのは国家の恥として、
しっかり北里氏を守り抜いた福沢諭吉氏もさすがですよね。





明治村はこんな山の中にあるんです。
機会があればぜひ・・・。

その2に続きます。
            
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