FC2ブログ

2013年07月29日

        

因果律の話が面白かった

category - 日記
2013/ 07/ 29
                 
先日見つけた禅のサイトが面白くて、楽しく読んでいます。
こんな話も載っていました。

不落因果 不昧因果 ふらくいんが ふまいいんが

結構長いので、koalaがザクッとまとめてみました。

ある和尚様が説法する時、いつもみかける老人がいました。
ある時、老人は退かず一人残ります。
百丈和尚は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。

老人が答えます。
実は私は人間ではありません。
ずっと以前は、この寺の住職でした。
ある時、一人の修行者が質問しました。
『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか?』と。

私は、即座に、『不落因果―因果の制約を受けない』と答えました。
その答えのゆえに五百生(五百回の生まれ変わり)もの長い間、
野狐の身に堕とされました。

なにとぞ、憐れと思うて私に代わって正しい見解をお示し下さい」と懇願します。
老人は威儀を正して、「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」と問いかけます。
百丈和尚、即座に、「不昧因果――因果の制約を昧(くら)まさない」と答えます。
老人は言下に大悟して野狐の身を脱します。
(koala注  「昧(くら)まさない」は、ごまかさない、というような意味だと思います。違ったらすみません。)

仏教では、もの事を生じさせる直接の原因を「因」と云い、
間接的な原因、即ち因に加わる事情、条件を「縁」と云い、
それによって生じるものを「果」と云い、
その過程の中で、「因」が「果」に及ぼす力を「業」と説きます。


例えば、一箇の豆の種子があります。
これが「因」です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが「縁」です。

芽が出て実がつく、これが「果」です。

縁の働き具合で果も大きく違ってきます。
悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、
良い因でも悪縁が加われば悪果となります。
しかも、その果がそのまま、果で終わるのではなく、
また因となって、そこに縁が加わり果が出ます。

私達の存在のすべてがこの法則に準じているのです。

私達が良きにつけ、悪しきにつけ行なった一つ一つの行為の積み重ねが、
私達の現在を造っているのです。

しかも、それだけでは終わりません。
それが因となって、当然、果を造って行くのです。
これを「因果律」というのです。


決してこの「因果律」を免れる事は出来ません。

では、百丈和尚の答えた「不昧因果」とは何でしょうか。

因」も一時の位であり、「果」も一時の位であって、
それだけで全的な存在なのです。
野狐は野狐のままに絶対的な存在です。


老人は、因果に執らわれて因果に落ちない世界を妄想して、
野狐の身を脱せんと画策した所に、
五百生もの長い間脱する事が出来なかったのです。

百丈和尚の「不昧因果」の一喝を聞いて、野狐は野狐でよしと悟った時、
逆に五百生の野狐の身を脱する事が出来たのです。


----------------------------

私達は生きて行く以上、何かの「因縁」で「業」を造り、
「果」を受けねばなりません。
その「業」に執らわれていては、生きて行く事は出来ません。
開き直って、その「業」を自分の責任として受け止めて行けというのです。


真実禅の悟りに至っていないのに知った振りして話したり、
行動したりする人の禅を「野狐禅(やこぜん)」と云いますが、
この言葉もこの公案から出ています。

----------------------------

ここまでが、禅のHPに載っていた話の要約です。

この思想・・・映画のクラウド・アトラスと同じじゃない?  
禅の方がもちろん先なのですが。(笑)

私には、この和尚様と狐の例え話と因果律の説明が、
とても心にしっくりして面白かったです。

過去の全てが現在をつくり、現在の全てが未来をつくっている、
という考え方は、今の私にはとても腑に落ちるのです。
昔、もしこんな話を聞いたとしても、
きっと全く腑に落ちなかったことでしょうが。

シュウトメちゃんみたいな人に罵倒されなくちゃいけないなんてと
苦しんでいた過去の私の状況は、この考えでいくと、全部自己責任です。

何があったかなんてわかりませんけど、自己責任。(笑)
過去世で誰かを罵倒したり、こき使ったりしたのかもしれませんし、
シュウトメちゃんに借りがあって返したいと思ったのかも。
理由なんてわかりっこないんですから、考えるだけ無駄。
こういう結果が出ることがあったのね、と腹をくくればよかったのね。
私は愚痴を言いまくり、泣きまくり、必死で頑張りました。
悪い因果もいい因果も、いろんな因果を新しく生みましたね~。

なんてすっきりさっぱりきっぱりした(笑)考えなんでしょう!
何が起きてきても、そう、例え話の老人のように、
いきなり野狐になっちゃっても、野狐は野狐でよしと
自分の因果律を受け入れられたらいいですね。

なるべくそうありたいと思っています。
でも、受け入れることが出来ないなら、それはそれでいいとも思いました。

野狐は野狐のままに絶対的な存在なのだというお話なのですが、
受け入れられない自分は受け入れられない自分のまま、
それだって絶対的な存在なのではないかと思ったのです。

悟りを得たら因果律からは脱却できると断言したため、
野狐になり、野狐の転生を繰り返したお寺の住職さま。
そこから脱却しようと必死になることは、
逆に新しい悪い因縁を造ることになってしまいました。
どうしても脱却できずに、和尚様に頼ったときに、
「不昧因果」、因果をごまかさない、の一喝を受けて、
因果を受け入れることができたのですが、
因果の世界で野狐となってあがいた日々があったからこそ、
その一喝で全てを理解できたのではと思いました。

大事なのは、因果をごまかさない事が大事だと知ること。
それを知っても、すぐに出来ることにはならなくて、
あがくのも人間で、あがくのも無駄ではない、
あがく他の人の気持ちも理解できるし・・・。
でも、根本に、因果律がすとんと落ちていれば、
あがく時間は激減しそうな気がします。
 
人は因果律からは逃れることが出来ない。
自分は野狐になっていはしないかな?
こういう問いかけを時々するのも大事かなと思います。
そして、野狐になっていたら、しまった!と悲観するのではなく、
あがいた経験もよしとし、あがくことで作った悪い因果を打ち消すような、
よい因果を積む生活を送ればいいんです。

これは個人の感想で、禅的にどうなのかわかりません、念のため。(笑)

このHPに出会えて、人には仏性があることもしみじみ感じられ、
「いつも悠然として、しかも颯々と歩く」という
素敵な呪文(笑)を覚えることが出来たし、
今回は因果律が腑に落ちたことで、とても有意義でしたし、
読み勧めるのが楽しいです。

禅語というページ(←クリックすると飛びます)にたくさんお話が載っていて、
順番にではなく、タイトルにぴんと来たお話を読んでいます。
            
スポンサーサイト