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2013年07月25日

        

「こんな目にあって可哀想ゲーム」は、楽しくないからもうやらない。だったら、どんなゲームが楽しい?

category - 日記
2013/ 07/ 25
                 
ネット友sioさんが「無位の真人という考え方」というブログを書いていました。
sioさんは仏教にお詳しいので、時々こういう仏教用語が出てきます。
私の聞いたことのない言葉だったので、調べてみました。

「無位=階級のないこと」
「真人=人をして人たらしめるところの存在理由」

ということのようです。
これでもわからないので、更に調べると、こんな文章がヒットしました。

一無位真人(いちむいのしんにん)


赤肉団上に一無位の真人有り――赤肉団はお互いの肉体のことだ。
切れば血の出る、このクソ袋のことだ。
朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、
一無位の真人有りだ。
何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、
一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ。
皆の体の中に一人一人、無位の真人という、修行したこともなければ、
修行する必要もない真人が一人おる。
陸軍大将でもなければ上等兵でもない。
正一位でもなければ従五位でもない。そんな階級はない。
社長でもなければ社員でもない。位のつけようがない。
男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。
金持ちでもなければ貧乏でもない。偉くもなければ馬鹿でもない。
世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。
主人公というものがある。仏性というものがある。
正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある。
 
肉体的には肥えた人もあればやせた人もある。
金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。
学校を出たとか出んとか、履歴がついておる。
この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、
修行することもい らんが、悟りを開くこともいらん、
生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ


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すごい言葉なんですね、無位の真人。

この肉体は切れば血の出るクソ袋!
クソ袋の中に、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。
みんな一人ずつ。

生まれたまま、そのままで結構じゃという
立派な主体性がある!

すごい言葉に出会ってしまったと、昨日は朝から感動しました。
実はこういう内容のことは、スピリチュアル界でもよく言われます。
クソ袋は言わないけど、神(仏と同義よね?)がいるとか、
生まれたまま、そのままで結構という思想はあるんです。
(そのままで結構というのはちょっと誤解を招く表現ですが、
努力を否定する言葉ではもちろんないんですよ。)
元ネタ(!)は禅の言葉だったのかな?(笑)
私にとっては慣れ親しんだ考えでもありましたが、
まことに理解しやすく、きっぱりとした説明で、腑に落ちました。

私には実は隠れた才能があります。   
その時に必要な言葉に、タイムリーに出会えるんです。
自分がそのような言葉を編み出す才能はないんですが。(苦笑)

上の一無位真人の青字の部分は、ある禅のサイトなのですが、
法話を読んでいましたら、「人の幸せを祈る心」という法話の中に、
こんな言葉がありました。


スッタニパータというお経にこのような言葉があります。

目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くにあるいは近くに住むものでもすでに生まれたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。


この言葉も、心にすとん!と落ちて、切なくなるほどでした。

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私は昔はよく怒っていました。
シュウトメちゃんの言動がすさまじかったので、
「てめえが不幸になろうがかまわない。」 とまでは思わなかったですが、
「てめえなんか嫌いだ、消えちまえ。」くらいの感情はありました。
誰が相手でも、ひどい目にあったと感じれば、怒りが強く湧きました。

今、それが変わってきています。
怒って書いている人もブログを読めば、
それはあんまりひどい、とカチンと来てそんなレスを書きますし、
自分が納得できない扱いを受けても、やはりカチンと来るのですが、
迷惑だけど、どう生きたってその人の自由だし・・というような
思いが湧いて、以前の怒りとは別物になっているんですね。

私自身に関して言えば、そこには強い被害者意識がありました。
私って、こんな目にあって可哀想、っていう感情です。
しかし、同居生活はすでに29年になります。
「こんな目にあって可哀想ゲーム」なんて、10年もやればうんざりなのに。
シュウトメちゃんはまだやってるけど、頻度は減っています。

振り返るとわが人生には、シュウトメちゃん以外にも、
「こんな目にあって可哀想ゲーム」が散らばっていたのでした。
根っこにあったのは「私が我慢すればいいんじゃない?」という価値観。
どうして「私が我慢すればいいんじゃない?」と思うのか。

私にはたいした価値がないから。
我慢するというのは大事なことだから。
・・・なんていらない価値観なの?!と愕然としました。
これって「私は大事じゃない」って言ってることと同じじゃない?
「こんな目にあって可哀想ゲーム」はもういらない、と思いました。

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「こんな目にあって可哀想ゲーム」は、楽しくないからもうやらない。
だったら、どんなゲームが楽しい?

その答えが、びゅ~んと飛んできて(笑)、言葉として現れました。

この肉体は切れば血の出るクソ袋!
クソ袋の中に、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。
みんな一人ずつ。

生まれたまま、そのままで結構じゃという
立派な主体性がある!

目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くにあるいは近くに住むものでもすでに生まれたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。


この立ち位置で生きていくのは、楽しそうじゃないですか?

「私など価値がないから我慢しよう」というのと
「生まれたまま、そのままで結構じゃという
立派な主体性がある。自分も他人も」というのと、
どっちが楽しそうだと思いますか?


人によって、どんなゲームをしたいかは違いますから、
好き好きでいいんだと思います。
私が「このゲームが楽しそうだ」と思うことと、
「このゲームが実行できている」とは別のものです、念のため。
            
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