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2013年07月

        

シュウトメちゃんの弟さん夫婦に会えました

category - 日記
2013/ 07/ 31
                 
昨日は偶然にも、シュウトメちゃんの弟夫婦さんに会えました。

出勤前に、シュウトメちゃんに会いに行き、
おしゃべりしたり、頼まれたことをしたり、
お風呂セット(入浴後の着替え1式を袋に入れておく)を作ったり。
叔父達に電話して、自分が入所したと連絡してくれと言うので、
う~むと思いつつ、そうですね、と言っておきました。

シュウトメちゃの弟さんが2人います。
いつもシュウトメちゃんが入所前には電話します。
するとそこそこ高齢なのに、持病もあるのに、
片道1時間かけて、入院でもないのにお見舞金2万円持って、
シュウトメちゃんを訪問してくれるんです。
連絡するということは、来てくれ、ということであって、
私としては心苦しいので、私からはするつもりはありません。
オットが、退所してから連れて行ってあげるというのですが、
叔父達の家はバリアフリーじゃないし、足が痛いので行きたくない。
シュウトメちゃんは「お見舞いに」来て欲しいのです。
叔父達が若かったらまだいいですが、
シュウトメちゃんにそれを言っても、自分から見たら弟は若いので、
理解できないみたいなんですね。困ったもんだ。

シュウトメちゃんは、会いに来てほしいので、
自分が入所すると電話しておきながら、電話してないといい、
入所前日に、オットに、弟達に電話しておけと言っていました。
オットは、シュウトメちゃんにはわかったと返事だけしてました。
それはもう2週間近く前のこと。
私はシュウトメちゃんは電話したに決まってるとにらんでいます。
入所前は、電話しまくってたもの。

洗濯物を持って帰ろうとしたら、マスクはないかと言われたんです。
車の中に使い捨てのマスクを常備しているので、
ではそれを取ってくるね、と車に戻り、部屋に戻り、
もう1度少しおしゃべりしてから、帰るために駐車場に。
そこに入ってきたのが、シュウトメちゃんの弟さんの車でした。

すごいタイミング。
偶然ですね~と叔父夫婦には言うけれど、怪しいオバハン(私)は、
マスクで時間稼ぎして会わせてくれてありがとう~♪と
カミサマに心の中で御礼を言ったのでありました。
昨日まで仏の話をして、今日はカミサマに御礼を言う、
宗教的節操ゼロですねぇ。仏様に感謝したら一貫してたか。(爆)

やはりシュウトメちゃんは、入所前、叔父たちに電話していました。
私やオットが電話してたら(するつもりなかったけど)
まだ来ないのかという催促になるところでした。

遅くなってごめんね~とプレゼントやらお見舞金を出して、
たくさん元気づけて、叔父などはいつも、シュウトメちゃんの
頭をなで、顔をなで、握手もいっぱいして、
エネルギーを注入?してくれるので、シュウトメちゃんは嬉しいんです。

もう1人の弟さんは、奥さん共々体調が優れないからねと、
暗に、期待しても来られないからねと念を押していました。

来てくれた叔父も叔母も、大病を抱える身です。
そんな2人に、遠方から会いに来て欲しいという気持ちで
電話しちゃうんだよね、シュウトメちゃんは。

叔父と叔母は爆弾的な大病を抱えているので、
元気な顔を見るとほっとします。
「お元気そうで、本当によかったです。
ごめんなさいね、遠いのに、お気遣いいただいて・・・」と言うと、
「koalaさん、また痩せたんじゃないか(痩せてないです)?
無理しちゃいけないよ。頑張りすぎちゃいかん」と
真顔で言ってくださいました。
優しいんです、この叔父夫婦。

有難いやら、申し訳ないやらで複雑でしたが、
お会いできて、実際に顔を見て御礼を言えてよかったです。
            
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仏の計らい

category - 日記
2013/ 07/ 30
                 
昨日のブログに興味を持たれた方、続編です。 
全く興味が持てない方も、当然いらっしゃると思います。


緑の字の部分は前書きです。本文はその後です。

個人の偏った考えですが、人それぞれ、今生のプランが違うので、
必要な状況も、必要な情報も、それぞれなのだと思います。

ピンと来るかどうか、という一見あやふやな見極めからですが、
その時に必要な情報にはピンと来るように出来ている気がします。
ピンと来る情報でなければ、今はご縁のない情報なのだと思います。
しかし、若い頃、無理して読んだ名作が全くピンと来なかったのに、
年を重ねてから読み返したら面白かったということもあります。
その逆もあると思います。

自分に役に立ったから、人の役に立つという確証はなく、
押し付けるのは愚かだし、押し付けられても困ります。
人はそれぞれのプランを、自分の選択で縁を作って生きていますので、
好きに生きればいいし、その結果悪い縁を作ってるよと思っても、
自分の意見を言う以上のことは、余計なお世話になりがちです。
私のようなおっちょこちょいは、余計なお世話に注意すべし。(爆)


------------------------------

ここからが本文です。では、まずは復習から。(笑)

「因」  物事を生じさせる直接の原因

「縁」  間接的な原因、条件

「果」  縁によって生じるもの

「業」  その過程の中で、「因」が「果」に及ぼす力


仏教にお詳しいsioさんからご指摘をいただきました。

臨済宗のHPの説明に「業」を自分の責任として受け止めて行け、
という言葉があったのですが、これは仏教的でないそうです。

仏教では、自己責任を強調することは多分ほとんどなく、
すべて仏の計らいであるという解釈が一般的のようです。

すべて仏の計らい!
最近、素晴らしい言葉に次々に出会うので幸せです。

------------------------------

生きていると、望まないことも起こってきます。
自分や大事な人が、重い病気にかかったり、
大怪我したり、死んだりします。
受験に失敗したり、失恋したり、裏切られたり、
失業したり、貧乏したりと、内容は様々です。

できれば避けたいことが起こり、避けることも出来ないことが、
多分、誰の身にも、例外なく、起こってきます。
しかし、そのすべてに「因」があり、それは自己責任。


これを言い換えてみると、こんな文になります。

できれば避けたいことが起こり、避けることも出来ないことが、
多分、誰の身にも、例外なく、起こってきます。
しかし、そのすべてに仏の計らいがある。


どっちの文が好きですか?
軽すぎる?
すみません、軽いブログなんで。(爆)

私は昨日は前者が素晴らしい!と感動しましたが、
今日は、後者は更に素晴らしい!と感動しました。

------------------------------

起こってくることが、たとえ自分の望みとかけ離れ、
辛いことだったとしても、それは起こるべくして起きたことで、
起きたことには意味があり、仏の計らいがある、と言うのです。

スピリチュアル界ではこれを「すべてはうまくいっている」
などとと言います。(by 越智啓子さん)
今の自分の学びにぴったりの出来事が起こってくるので、
辛いことでも、うまくいっている、と言えるわけです。

人間が自分の中の仏性に添っていくことができるようになるために、
一番ぴったりの事が起きていると思うことができれば、
それを仏の計らいと思うことができれば、
同じことが起こっても、受け取り方が全く違ってくるでしょう。

------------------------------

こういう問題が解決すれば幸せ、ではなくて、
その問題が起こってきたことこそ、仏の計らいであり、
そこに自分がどういう縁を付け加えることが出来るか、
それが自分の人生における選択、と言えるのではないか。

この考え方が、仏教的かどうか、私にはわかりません。
でも、とても惹かれる、腑に落ちる考え方だと思いました。

同じ苦難を乗り越えるにも、仏の計らいだと思えれば、
愚痴や不平不満、人への批判で心がいっぱいにはならないでしょう。

別に愚痴や不平不満や、人への批判をしたっていいのですよ。
でもそれは悪い「縁」を結ぶことになり、悪い「果」を招くでしょう。
正直な所、他の人たちにも大迷惑です。

愚痴や不平不満、人への批判を垂れ流されるのはきついものです。
シュウトメちゃんとの経験に限って言えば、かなりきつかったです。
私の一番の間違いは、シュウトメちゃんを変えようとしたことでした。
他人を変えようと思うのは、間違いでした。

私の学びとシュウトメちゃんの学びは違います。
シュウトメちゃんは自分の学びを自分でするだけです。
ただ、「縁」がある関係ですから、変えようと思わず、
縁のあった方に、敬意を持って意見を言う、結果は求めない、
というのが望ましかったのではという気がしています。
その時点では私にはそれがわからず、四苦八苦しましたが、
四苦八苦するのも仏の計らいだったのでしょう。

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生かされて、学びの道を歩いていられること。
それ自体が、素晴らしい仏の計らいだと感じます。

私の雑駁な頭の中では、神様も仏様もごっちゃになっていますが、
精神的には無宗教の多い日本人には多いタイプでは?(苦笑)
                         
                                  
        

因果律の話が面白かった

category - 日記
2013/ 07/ 29
                 
先日見つけた禅のサイトが面白くて、楽しく読んでいます。
こんな話も載っていました。

不落因果 不昧因果 ふらくいんが ふまいいんが

結構長いので、koalaがザクッとまとめてみました。

ある和尚様が説法する時、いつもみかける老人がいました。
ある時、老人は退かず一人残ります。
百丈和尚は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。

老人が答えます。
実は私は人間ではありません。
ずっと以前は、この寺の住職でした。
ある時、一人の修行者が質問しました。
『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか?』と。

私は、即座に、『不落因果―因果の制約を受けない』と答えました。
その答えのゆえに五百生(五百回の生まれ変わり)もの長い間、
野狐の身に堕とされました。

なにとぞ、憐れと思うて私に代わって正しい見解をお示し下さい」と懇願します。
老人は威儀を正して、「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」と問いかけます。
百丈和尚、即座に、「不昧因果――因果の制約を昧(くら)まさない」と答えます。
老人は言下に大悟して野狐の身を脱します。
(koala注  「昧(くら)まさない」は、ごまかさない、というような意味だと思います。違ったらすみません。)

仏教では、もの事を生じさせる直接の原因を「因」と云い、
間接的な原因、即ち因に加わる事情、条件を「縁」と云い、
それによって生じるものを「果」と云い、
その過程の中で、「因」が「果」に及ぼす力を「業」と説きます。


例えば、一箇の豆の種子があります。
これが「因」です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが「縁」です。

芽が出て実がつく、これが「果」です。

縁の働き具合で果も大きく違ってきます。
悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、
良い因でも悪縁が加われば悪果となります。
しかも、その果がそのまま、果で終わるのではなく、
また因となって、そこに縁が加わり果が出ます。

私達の存在のすべてがこの法則に準じているのです。

私達が良きにつけ、悪しきにつけ行なった一つ一つの行為の積み重ねが、
私達の現在を造っているのです。

しかも、それだけでは終わりません。
それが因となって、当然、果を造って行くのです。
これを「因果律」というのです。


決してこの「因果律」を免れる事は出来ません。

では、百丈和尚の答えた「不昧因果」とは何でしょうか。

因」も一時の位であり、「果」も一時の位であって、
それだけで全的な存在なのです。
野狐は野狐のままに絶対的な存在です。


老人は、因果に執らわれて因果に落ちない世界を妄想して、
野狐の身を脱せんと画策した所に、
五百生もの長い間脱する事が出来なかったのです。

百丈和尚の「不昧因果」の一喝を聞いて、野狐は野狐でよしと悟った時、
逆に五百生の野狐の身を脱する事が出来たのです。


----------------------------

私達は生きて行く以上、何かの「因縁」で「業」を造り、
「果」を受けねばなりません。
その「業」に執らわれていては、生きて行く事は出来ません。
開き直って、その「業」を自分の責任として受け止めて行けというのです。


真実禅の悟りに至っていないのに知った振りして話したり、
行動したりする人の禅を「野狐禅(やこぜん)」と云いますが、
この言葉もこの公案から出ています。

----------------------------

ここまでが、禅のHPに載っていた話の要約です。

この思想・・・映画のクラウド・アトラスと同じじゃない?  
禅の方がもちろん先なのですが。(笑)

私には、この和尚様と狐の例え話と因果律の説明が、
とても心にしっくりして面白かったです。

過去の全てが現在をつくり、現在の全てが未来をつくっている、
という考え方は、今の私にはとても腑に落ちるのです。
昔、もしこんな話を聞いたとしても、
きっと全く腑に落ちなかったことでしょうが。

シュウトメちゃんみたいな人に罵倒されなくちゃいけないなんてと
苦しんでいた過去の私の状況は、この考えでいくと、全部自己責任です。

何があったかなんてわかりませんけど、自己責任。(笑)
過去世で誰かを罵倒したり、こき使ったりしたのかもしれませんし、
シュウトメちゃんに借りがあって返したいと思ったのかも。
理由なんてわかりっこないんですから、考えるだけ無駄。
こういう結果が出ることがあったのね、と腹をくくればよかったのね。
私は愚痴を言いまくり、泣きまくり、必死で頑張りました。
悪い因果もいい因果も、いろんな因果を新しく生みましたね~。

なんてすっきりさっぱりきっぱりした(笑)考えなんでしょう!
何が起きてきても、そう、例え話の老人のように、
いきなり野狐になっちゃっても、野狐は野狐でよしと
自分の因果律を受け入れられたらいいですね。

なるべくそうありたいと思っています。
でも、受け入れることが出来ないなら、それはそれでいいとも思いました。

野狐は野狐のままに絶対的な存在なのだというお話なのですが、
受け入れられない自分は受け入れられない自分のまま、
それだって絶対的な存在なのではないかと思ったのです。

悟りを得たら因果律からは脱却できると断言したため、
野狐になり、野狐の転生を繰り返したお寺の住職さま。
そこから脱却しようと必死になることは、
逆に新しい悪い因縁を造ることになってしまいました。
どうしても脱却できずに、和尚様に頼ったときに、
「不昧因果」、因果をごまかさない、の一喝を受けて、
因果を受け入れることができたのですが、
因果の世界で野狐となってあがいた日々があったからこそ、
その一喝で全てを理解できたのではと思いました。

大事なのは、因果をごまかさない事が大事だと知ること。
それを知っても、すぐに出来ることにはならなくて、
あがくのも人間で、あがくのも無駄ではない、
あがく他の人の気持ちも理解できるし・・・。
でも、根本に、因果律がすとんと落ちていれば、
あがく時間は激減しそうな気がします。
 
人は因果律からは逃れることが出来ない。
自分は野狐になっていはしないかな?
こういう問いかけを時々するのも大事かなと思います。
そして、野狐になっていたら、しまった!と悲観するのではなく、
あがいた経験もよしとし、あがくことで作った悪い因果を打ち消すような、
よい因果を積む生活を送ればいいんです。

これは個人の感想で、禅的にどうなのかわかりません、念のため。(笑)

このHPに出会えて、人には仏性があることもしみじみ感じられ、
「いつも悠然として、しかも颯々と歩く」という
素敵な呪文(笑)を覚えることが出来たし、
今回は因果律が腑に落ちたことで、とても有意義でしたし、
読み勧めるのが楽しいです。

禅語というページ(←クリックすると飛びます)にたくさんお話が載っていて、
順番にではなく、タイトルにぴんと来たお話を読んでいます。
                         
                                  
        

ポーチェラカが咲いています

category - 日記
2013/ 07/ 28
                 
そういえば、以前ポーチェラカを植えたとき、
咲いたらアップします~と書いたことを思い出しました。

丈夫で鮮やかで広がって咲いてくれる、
手入れ出来ないガーデナーの味方、ポーチェラカ。




ここは日当たりもよく、植え方の密度も少し高かったのかな。
よく咲いています。




ここは少し少なめ。
もう少し密に植えたらよかった。
ケチなので、大箱のお徳用をたくさん買うのに加え、
1パックを更に半分に分けて植えるkoalaなのでありました。




玄関の横ですが、どの辺がポーチェラカか、わかりますか?




レンガの横です。
手入れできていないのがバレバレの画像ですね。

昨日はお墓と仏様のお花を替えましたが、
この暑さですぐにダメになってしまいます。
お墓の草取りをするだけで滝の汗です。

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叔母の所にも行きましたが、けっこう膝の痛みが強いようなので、
装具を作りたいと言っていました。
明日、病院に問い合わせてみようと思います。

シュウトメちゃんも、同じ病院で装具を作っていますが、
やはり立ち上がる時の痛みが軽減されるようです。

関節をいっぱい使って、頑張ってきた叔母やシュウトメちゃん。
使いすぎてぼろぼろになって痛いというのは、
理にかなったことですが、切ないですね。

「叔母さん、自宅の庭の草取りのことだけど、
あんまり暑いから大きいのしか抜いてないよ。
後は除草剤をかけておいたからね」
報告しないでも、見に行けないんだけど、一応ね。
                         
                                  
        

玄関のプリザを作りました

category - 日記
2013/ 07/ 27
                 



昨日は友人のすみれさんのお誘いで、プリザーブドフラワー教室へ。
和風の作品が出来ました。
さて、玄関を掃除する原動力になりそうです。
画像は我が家の玄関ではなく、これを作った教室で撮影。

生徒は2人で、Nさんと私。
Nさんとは何度かご一緒しています。
講師はすみれさん。

きれいなものを作るって、本当に楽しいねと言いあって、
世間話なども交えつつで、気分は女子会でしょうか。(笑)
3人とも、義理親と同居、介護を長くしてきた身。
不思議ですね。類は友を呼ぶのでしょうか?

Nさんは、介護の役に立つからと、介護の勉強をして資格を取り、
お仕事もしてきた方です。
50代で別の仕事を志して新たに始められたほどのチャレンジャー。
この後も、午後からはお仕事が入っていました。

さて、すみれさんと私は、本日は仕事休みでフリー。
入ったことのないお店でランチしようということになりました。

サラダとスープとパスタを食べつつ、またおしゃべり。


 
 
 



    サラダのドレッシングは酢の酸味が利いたタイプで私の好み。
    でも我が家のほかの家族はクリーミーなドレッシングが好きで、
    酸味は弱い方が好みなので、長い間、こういうのを食べてなかったです。
    そういえば、こういうの、好きだったわ、という発見がありました。
    別に大した発見ではないけど、自分だけたまにはこういう味もいいなぁ。

    スープはヴィシソワーズでしたが、仕上げに溶かしバターが少しかかってました。
    ふ~ん、と思って食べてみたら、バターの塩気がまた美味しい。
    オットが成人病予備軍なので、バターは避けてる食材で、
    特に最近はパンも焼いていないので、ほとんど使ってなかったです。
    マーガリンは更に体に悪いので全く使いません。

    そういえば、バターたっぷりのトーストも、ほとんど食べてないです。
    でも、たまにこうやって食べるのも美味しいし、
    そこまで避けることもない食材ですよね。

    パスタは海老とつるむらさきのぺペロンチーノ。
    つるむらさきって、全国的に使われてる野菜でしょうか?
    私の住む地区の産直には、今の時期、山ほど並んでいますが。
    こういうパスタに使うなら、100円で7人分はあるわ~。(笑)

    きれいなものを作って、おしゃべりを愉しみ、
    美味しい物を食べる。
    フルコースの女子会でありました。
                         
                                  
        

いつも悠然として、しかも颯々と歩く

category - 日記
2013/ 07/ 26
                 
昨日の夜は一時的に大雨が降りました。

シュウトメちゃんから「ハンドクリームが欲しい。
家に置いて来た青いクッションが欲しい」と言われたので、
昨日は仕事から帰り、食事の仕度をしてから、
青いクッションを持って家を出て、ハンドクリームを買い、
シュウトメちゃんの施設に行きました。

大急ぎで行ったので、まだ7時半を少しまわったくらいでしたが、
施設はまるで夜中みたいにシ~ンと静まり返っていました。
呆けたおばあちゃんが嘆くような歌うような声を出していたけど。

シュウトメちゃんは元気で機嫌もよくて、施設の生活が
うまくいっているんだなと嬉しくなりました。

帰りにガソリンランプがついちゃった!
入れなきゃと思いつつ放置した結果です。
普段使わないガソリンスタンド(セルフ)に入ったら、
知ってる店とシステムが違うみたいでした。
えっと・・と立ち止まってしまったら、すぐ店員さんが来ました。
困っていそうな客の所に飛んでいくのはサービス業の基本。
バイトの学生さんみたいで、ちょっとタメ口ではありましたが、
感じのいい若い子でありました。

ちょうどゴロゴロと雷が少し遠くで鳴っていました。
「今、名古屋で冠水するくらい大雨が降ってます。
さっき電話で聞いたばかりの話。
こっちにも来ますよ。早く帰ったほうがいいです」
バイトの子が教えてくれた情報にびっくり。
「そうなの?冠水するくらいの大雨?
ありがとう。すぐ帰るわね」
バイトの子はにこっと笑ってお辞儀して去っていきました。

ゲリラ豪雨が来るのかな。
あれがくるとワイパー効かないし、危ないよね。
ありがとう、いい情報くれて。
でも、電話でのホットな情報ってことは仕事中に友達と電話?(笑)

帰宅直前に大粒の雨が降り出し、その後、台風みたいな雨が。
それほど長時間でなかったので、よかったです。
家族はそれぞれ大雨の後に帰ってきました。

ちょっとした出来事でしたが、店員さん、ありがとう。
こころがほんわかしました。バイト、頑張ってね。

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昨日ご紹介した禅のHPが面白いです。青字は引用部分。

―忙と閑の調和する世界

―雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生―(『雪竇語録』三)

高い山の頂きにポッカリとひとひらの雲が浮かんでいる。
渓谷に眼をやるとさらさらと忙しそうに急流が音を立てて流れている。
なんという緩と急の取り合わせであろう。
人間もこのように多忙と有閑が調和した生活をすべきであろう。


私が禅の専門道場で最初に習ったことは、「緩急宜しく節を得べし」という
禅堂生活の心構えであった。

まず、草履を履いて堂内を歩くことから厳しい注意を受けた。
草履を引きずってバタバタと歩くことはもちろん禁物である。

だからと言って草履の音を立てないようにゆっくり気をつけて歩けば、
「盗人のような格好で歩くんじゃない」と怒鳴られた。

悠然として、しかも颯々と歩くようになるまで三カ月ぐらいはかかっただろうか。

歩くときばかりではない。
箸の上げ下ろしから入浴のマナーにいたるまで、生活の全般にわたって、
緩と急の調和は雲水生活の基本であった。

「把住と放行」も同じこと、「把住」は物をグッと握り締めることであり、
いわば緊張の一面である。

反対に「放行」はその手をパッと拡げて物を手放すことで、
開放の一面である。この二面をいかに機敏に使い分けるかが、
一般の家庭生活においても大切であろう。

たとえば家庭生活において、お金の無駄使いは禁物である。
収入のことを考えずに贅沢ばかりしていると、直ぐに財布が底をついてしまう。
いくらお金があっても、平素はできるだけ質素でなければならない。

またいくら貧しくても、ここ一番というときお金を出し惜しんでは、
お金を使う値打ちがなくなってしまう。
私の養母は平素ずいぶんと始末屋であったが、
修学旅行の時などは、学校で決められた限度を、
遙かに超えるお金を持たせてくれた。
そして「残ったら返しなさい」と言うのを忘れなかった。


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歩き方一つをとっても、修行なのですねぇ。

草履を引きずってバタバタと歩くことはもちろん禁物。

この歩き方をする時、人は慌てているわけです。
早く早く、とか、遅れちゃいけない、とか。
そういう心のさまが、既に禅の精神から離れていると。

草履の音を立てないようにゆっくり気をつけて歩けば、
「盗人のような格好で歩くんじゃない」と怒鳴られた。


草履の音を立ててバタバタ歩くのは禁物なわけですから、
どうしたって、バタバタ歩いてはいかん!と自分に言い聞かせますよね。
音を立てない!バタバタしない!と頭の中で自分の声がリフレインしそう。
しかし、それは「盗人のようだ」と怒鳴られるわけです。
心の中は、失敗しちゃいけない!という怖れと緊張。
それもまた、禅の精神から離れているのでしょう。

悠然として、しかも颯々と歩くようになるまで三カ月ぐらいはかかっただろうか。

私は生まれてから1度も、そんな素晴らしい歩き方をしたことがない気がします。

---------------------------------

早く早く、などと慌てない。
急げ!間に合わないかも!などという慌ただしいがさつな想念で生きない。
失敗したら大変!などと縮こまらない。

あ、きっと嬉しくてスキップしてもダメよね。(笑)
スキップする禅僧なんて想像できません。
ウキウキと浮かれるのも禅的じゃないです。

いつも悠然として、しかも颯々と歩くということは、
心の乱れもないのだろうなぁ。

凡人のおばちゃん代表のようなワタクシですが、
とても憧れる歩き方であり、生きかたです。
せめて心の中でいつも悠然として、しかも颯々と歩く
つぶやいてみようと思います。

リアルな私を知っている方、私がバタバタと慌ただしく歩いても、
相変わらずがさつだな~と思わないでね。
心の奥では時々いつも悠然として、しかも颯々と歩く
つぶやいているので、
10年後には結果が出てるかも。
僧侶じゃないから3ヶ月は無理。

10年後には足が弱ってヨタヨタしてるからバタバタ出来ないだけかも・・・。
                         
                                  
        

「こんな目にあって可哀想ゲーム」は、楽しくないからもうやらない。だったら、どんなゲームが楽しい?

category - 日記
2013/ 07/ 25
                 
ネット友sioさんが「無位の真人という考え方」というブログを書いていました。
sioさんは仏教にお詳しいので、時々こういう仏教用語が出てきます。
私の聞いたことのない言葉だったので、調べてみました。

「無位=階級のないこと」
「真人=人をして人たらしめるところの存在理由」

ということのようです。
これでもわからないので、更に調べると、こんな文章がヒットしました。

一無位真人(いちむいのしんにん)


赤肉団上に一無位の真人有り――赤肉団はお互いの肉体のことだ。
切れば血の出る、このクソ袋のことだ。
朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、
一無位の真人有りだ。
何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、
一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ。
皆の体の中に一人一人、無位の真人という、修行したこともなければ、
修行する必要もない真人が一人おる。
陸軍大将でもなければ上等兵でもない。
正一位でもなければ従五位でもない。そんな階級はない。
社長でもなければ社員でもない。位のつけようがない。
男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。
金持ちでもなければ貧乏でもない。偉くもなければ馬鹿でもない。
世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。
主人公というものがある。仏性というものがある。
正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある。
 
肉体的には肥えた人もあればやせた人もある。
金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。
学校を出たとか出んとか、履歴がついておる。
この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、
修行することもい らんが、悟りを開くこともいらん、
生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ


--------------------------

すごい言葉なんですね、無位の真人。

この肉体は切れば血の出るクソ袋!
クソ袋の中に、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。
みんな一人ずつ。

生まれたまま、そのままで結構じゃという
立派な主体性がある!

すごい言葉に出会ってしまったと、昨日は朝から感動しました。
実はこういう内容のことは、スピリチュアル界でもよく言われます。
クソ袋は言わないけど、神(仏と同義よね?)がいるとか、
生まれたまま、そのままで結構という思想はあるんです。
(そのままで結構というのはちょっと誤解を招く表現ですが、
努力を否定する言葉ではもちろんないんですよ。)
元ネタ(!)は禅の言葉だったのかな?(笑)
私にとっては慣れ親しんだ考えでもありましたが、
まことに理解しやすく、きっぱりとした説明で、腑に落ちました。

私には実は隠れた才能があります。   
その時に必要な言葉に、タイムリーに出会えるんです。
自分がそのような言葉を編み出す才能はないんですが。(苦笑)

上の一無位真人の青字の部分は、ある禅のサイトなのですが、
法話を読んでいましたら、「人の幸せを祈る心」という法話の中に、
こんな言葉がありました。


スッタニパータというお経にこのような言葉があります。

目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くにあるいは近くに住むものでもすでに生まれたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。


この言葉も、心にすとん!と落ちて、切なくなるほどでした。

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私は昔はよく怒っていました。
シュウトメちゃんの言動がすさまじかったので、
「てめえが不幸になろうがかまわない。」 とまでは思わなかったですが、
「てめえなんか嫌いだ、消えちまえ。」くらいの感情はありました。
誰が相手でも、ひどい目にあったと感じれば、怒りが強く湧きました。

今、それが変わってきています。
怒って書いている人もブログを読めば、
それはあんまりひどい、とカチンと来てそんなレスを書きますし、
自分が納得できない扱いを受けても、やはりカチンと来るのですが、
迷惑だけど、どう生きたってその人の自由だし・・というような
思いが湧いて、以前の怒りとは別物になっているんですね。

私自身に関して言えば、そこには強い被害者意識がありました。
私って、こんな目にあって可哀想、っていう感情です。
しかし、同居生活はすでに29年になります。
「こんな目にあって可哀想ゲーム」なんて、10年もやればうんざりなのに。
シュウトメちゃんはまだやってるけど、頻度は減っています。

振り返るとわが人生には、シュウトメちゃん以外にも、
「こんな目にあって可哀想ゲーム」が散らばっていたのでした。
根っこにあったのは「私が我慢すればいいんじゃない?」という価値観。
どうして「私が我慢すればいいんじゃない?」と思うのか。

私にはたいした価値がないから。
我慢するというのは大事なことだから。
・・・なんていらない価値観なの?!と愕然としました。
これって「私は大事じゃない」って言ってることと同じじゃない?
「こんな目にあって可哀想ゲーム」はもういらない、と思いました。

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「こんな目にあって可哀想ゲーム」は、楽しくないからもうやらない。
だったら、どんなゲームが楽しい?

その答えが、びゅ~んと飛んできて(笑)、言葉として現れました。

この肉体は切れば血の出るクソ袋!
クソ袋の中に、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。
みんな一人ずつ。

生まれたまま、そのままで結構じゃという
立派な主体性がある!

目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くにあるいは近くに住むものでもすでに生まれたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。


この立ち位置で生きていくのは、楽しそうじゃないですか?

「私など価値がないから我慢しよう」というのと
「生まれたまま、そのままで結構じゃという
立派な主体性がある。自分も他人も」というのと、
どっちが楽しそうだと思いますか?


人によって、どんなゲームをしたいかは違いますから、
好き好きでいいんだと思います。
私が「このゲームが楽しそうだ」と思うことと、
「このゲームが実行できている」とは別のものです、念のため。
                         
                                  
        

今朝は雨が降りました

category - 日記
2013/ 07/ 24
                 



今朝は恵みの雨が降りました。
地面が乾燥しきっているので、雨は嬉しいですね。

これからの日本は、雨が降りやすい場所は大雨になりやすく、
降りにくい場所では、本当に降りにくくなるというニュースを
この間テレビで見ましたが・・・困りますね。
今朝、ちょうどいい雨をいただいたことを感謝します。

我が家の東端の花壇に、遅咲きの百合が咲いています。
ここの百合はネットで球根を買って植えてみたもので、
前に植えてあった百合たちが咲き終わっても咲かないので、
・・・つぼみだけ?まさかね?と思っていましたが、
かなり遅咲きの品種を私が買ったというだけだったようで、
今、満開になっています。

白い百合は、途中で曲がってしまい、加えて花の重みで
お辞儀をしているみたいな形で咲いています。




雨に濡れた花ってきれいですよね。
百合は香りも楽しめて好きな花です。
 
ご指摘がありましたので、追記します。
この百合は、顔を近づけると香る程度の
とても弱い香りしかありません。
私はわざわざ顔を近づけて香りを楽しんでいます。
だったら強い香りの百合を植えなさいって?
ごもっとも。(笑)




これはひとりばえしたコキア。
昨年植えて、枯れた物を抜いたんですが、
捨てる前にここで乾かした記憶があります。
その時に種がこぼれたんですね。
狭い狭いコンクリートの隙間から生えてきて、
こんなに立派に成長してくれました。

コキアは子供の頃、近所の家にたくさん植わっていました。
最初の間はこの新緑を楽しめて、
その後、紅葉するんですよね。
多分、その近所のおうちのコキアは、
こぼれ種で毎年生えてきていたのでしょう。

私が小学生まで過ごした場所は、道路になるということで、
中学生からは、新しい家に引っ越しました。
私の家族が住んでいた家も、コキアのあったご近所の家も、
今は道になっていて、跡形もありません。

でも、目をつむると、あのご近所のコキアが目に浮かびます。
特にそのコキアが好きだったとも思っていなかったのですけど、
こんなに記憶に残っているのは、好きだったってことですよね?(笑)
小学生の頃住んでいた家の縁側や、両親や弟の顔も浮かびます。

お隣のおばちゃんの顔も浮かびますねぇ。(笑)
もう、随分前に亡くなってしまいました。
お隣は「よっくん」と呼ばれた男の子が住んでいたので
みんな「よっくんのおばちゃん」と呼んでいました。
うちの母は「koalaちゃんのおばちゃん」でしたね~。

両親には怒られた記憶もたくさんあるはずなんだけど、
記憶に蘇る顔は幸せそうな笑顔ばかりです。

コキアを見ていて、しばらく幸せな記憶に感謝する時間が持てました。
                         
                                  
        

犬小屋を片付けました

category - 日記
2013/ 07/ 23
                 

 
愛犬メリーが17歳であの世に行ってしまったのは今年の6月4日のことでした。
 
我が家の母屋と離れの間を結ぶ、手前の小さな道の奥は砂利が敷いてあり、
そこに2つの犬小屋がありました。
1つはメリーのため、もう1つは、以前メリーに懐いたノラ猫のための犬小屋。
 
毎日、何度となく犬小屋を見て、時々たまらなくメリーが恋しかったですが、
その犬小屋を撤去する気になって、処分してきました。
 
元々ここは、砂利など敷いていなくて、土の場所でした。
メリーが元気いっぱいの時は、よく土を掘ったのです。
メリーの娘犬、ポンちゃんも良く掘りました。
 
ポンちゃんはずっと前に亡くなってしまい、
メリーも老齢が関係するのか穴を掘らなくなり、
私も草取りが大変なので、砂利になりました。
 
草取りが大変でも、土の上を歩く方が気持ちよかっただろうに、
飼い主の勝手で砂利にしてごめんね、メリー。
 
私が砂利の上にぺたんと座ると、、目が見えないのにわかるみたいで、
ちゃんと私の横にやってきたメリー。
メリーの顔をなでる私の手を舐めたがり、べちゃべちゃにしたメリー。
シャンプーですすいでいる最中に身震いして、水しぶきを振りまいたメリー。
ブラッシングするとごっそり毛が抜けてすごかったメリー。
 
今はもういないことを悲しむのではなくて、
ここに居てくれた日々をいっぱい思い出して感謝しようと思います。
この画像の場所に、もうメリーはいないし、犬小屋はないけれど、
メリーが振りまいていたピュアなエネルギーがきらきらと残っている気がします。
 
                         
                                  
        

心の地雷について

category - 日記
2013/ 07/ 22
                 
友人が「書いてもいいよ。訂正して欲しいことがあったら言うから」と
言ってくれたので、友人の話も少し書きます。
一部、解雇理由について、訂正箇所がありましたので、訂正しました。

彼女の職業は臨床心理士という少し特殊な専門です。
人の心理の奥を探っていく職業に就こうと志す時点で、
普通一般の人という範疇を越えた特殊さを持っていますよね。

素晴らしい能力も特殊さですし、人格の偏りも特殊さで、
特殊さにも有難いものと困るものがあります。
東京に、素晴らしい方の特殊さを持つ方がいらして、
できれば毎週でもお話を聞きたい・・・・
という話もありましたが、困る特殊さの被害の話もありました。

困る特殊さの被害については、過去にも聞いてきまして、
そのうちの一人に、彼女は以前、クビになっています。
その人は、立場的には偉いヒトなので、
他にもクビになっている人がいるのですが、
クビにした上に、嘘でだますのが困る特殊さでした。

クビにされる側は、お給料がゼロになるのも困りますが、
自分が責任を持って受け持ってきた患者さんたちに
「自分は見捨てられらのだ」という被害者意識を
決して与えたくないのです。
治療者との信頼関係が崩れ去ることの悪影響は計り知れず、
できればその人たちの治療はそのまま続けたいのです。

その人は、友人にその点は大丈夫だと嘘をつき、
実際には患者さんに「あの人は自分の金儲けのために
うちの患者を自分の開業している相談室に誘ったから解雇した。」と告げました。

患者さんたちは彼女を金儲けしか考えていない人である、
騙された、捨てられたと感じたでしょう。
とても卑怯な怒りの捌け口を見つけたな、と私は感じています。

彼女がクビになった理由はよくわかりませんが、
多分その人の地雷を踏んで怒らせたのでしょう。

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他の人が聞いてもなんでもない言葉なのに、
その言葉に触発される心の傷のある人には、
強い怒りを起こしてしまうことがある・・・というのを
私は「地雷を踏む」と呼んでいます。

ジャイアンの地雷を、多分、何度も踏んでます。(爆)
例えばある日、職場の入り口に募金箱を持った学生がいたので、
100円を入れてきました。普通でしょう?
ロッカールームで「koala財閥の奥さんはちゃんとお札を入れてきた?」と
ジャイアンが冗談を言うので、「100円だよ。財閥じゃないし。」
と言うやり取りの後、しつこかったので「うちはまだ大学生がいるもん。
学費で悩む財閥もいないでしょ」と返したら、すごく怒り出したの。

「自分の子供が大学に行く学費が惜しいか!」とか言い出して。
「koalaさんみたいなこという奥さんがいたわ!
うちは学費で頭が痛いってしょっちゅう言ってた!」
・・・私、しょっちゅうどころか、普段学費の話なんか全然してないよ。
そっちが財閥だとか何度もふざけるから、
お金がない理由として言っただけ・・・・
しかし、私はすでに地雷を踏んでしまったので、
そんなことを言っても無駄でした。

その奥さんとのやりとりでかつてジャイアンが味わった怒りの地雷を
私の「学費で悩む」という言葉が踏んじゃったのです。
その奥さんに対する怒りも、地雷を踏んだだけかもしれないけど。
しかし本人は、地雷を踏まれたから頭に来てるなどとは思わず、
koalaさんが母親としてとんでもない発言をするヒトだったから、
そのとんでもない人格に対して正当に怒っている、
とんでもないということを指導してやっているという意識なので、
しつこい説教が始まり、全く面倒くさい・・・。

ジャイアンは、自分のこの怒りが、実はどこから湧いてくるのか、
自分の内面を探ったら、きっと見たくないものが見えるので、
正義感というフィルターを通して私を罵倒する方が、
楽なことだったのだなぁと思います。
しかし地雷は消えないので、また誰かに地雷のスイッチになる事を言われたら、
激しい怒りが湧くことと思います。

これにびっくりして以来、激しい怒りや不安や、喜びでさえ、
その感情が大きかったら、何か自分の中に地雷があって、
地雷のスイッチが押されたなと思う癖がつきました。
その地雷って何だろう?と考えることは、
自分の内面を見つめることに繋がります。

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ジャイアンの地雷を踏んでも、説教が面倒くらいで済みますが、
友人の地雷踏みは職を失い、患者さんに「先生は私を見捨てて、
何も言わずに消えていったひどい人」という傷を与え、
彼女には嘘をついて、そんなことにはならないと思わせて放置させ、
結果として患者さんにそう思わせてしまった罪悪感を与えたのでした。

大きい地雷の埋まっている人は、心が不安定になりやすそうです。

友人と「私たち、地雷を踏んできたよね」と言いましたら、
私より被害の大きい彼女は、感慨深げに苦笑していました。

地雷って、避けられたのかな。
注意深くいれば、避けられたものもあるでしょうね。
でも、踏んで学んでいくしかない面もあるよね。
踏んで爆破をくらって、打たれ強くなっていく面もね。

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そんなことを話していて、そうか、シュウトメちゃんの攻撃も、
嫁いびりというより、地雷踏みだったかもと思いました。

「koalaさんが娘みたいで可愛いと言ってた頃があったよね。
シュウトメちゃんは、娘に対しては保護したいヒトなのよ。
でも、途中から、あなたは母親になっちゃった。」

「娘に対しては保護したいヒト?
ああ、そうかもしれない。そんな感じかも。
でも待って。オットにはそうじゃないよ?
草取りに関してオットが私をかばった時、怒り心頭で、
お前が熱を出した時、おぶって医者に連れて行ってやったのに!とか、
当たり前でしょ?ってことで恩を振りかざしてたもん。
いちいち子供に~してやった、って覚えてて恩に着せてるんだよ。
『それなのに、お前は!情けない!』って怒鳴ってた。」

「娘と息子は違うんだと思う。
娘って、自分を投影するんだよ。
息子は昔でいう跡取りだから、大事にされたでしょう?
男の子だからと大事にされるのは、憎たらしい面があるけど、
娘は息子より立場が劣るの。
自分と重ね合わせて守りたくなる。
koalaさんは世話する役目があって、すぐ母親役になっちゃった。
シュウトメちゃんにとって、娘は守らなくちゃいけないけど、
母親には何言ってもいいの。」

う~ん、それは言えるかも。
考えたこと無かったけど。

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家に帰ってから考えました。
シュウトメちゃんが実際に母親に反抗的なことを言ったかといえば、
それはなかったと思います。
親に服従することが、まともな娘だったと胸張って語ってました。

結婚も親が持ってきた話にうなづき、式まで相手の顔も見ず、
結婚したら苦労続きだったとも語っていました。
私の親は恋愛結婚だったと私を質問攻めにして聞きだし、
そういう女(私の母親)はあばずれだと呼ばれた!と胸を張り、
私を唖然とさせたシュウトメちゃん。

自分で選んだ相手と結婚した私の母を軽蔑することで、
まともな娘であった自分を誇らしく思ったのでしょうが、
その心の奥では、もっと自由に生きたかったという思いや、
女だから家事をしろ(シュウトメちゃんに姉妹はいなくて紅一点)と
兄や弟達が好きなことをしている時間にも家事をやらされたこと、
苦労する結婚を勝手に決められたことなど、
実は親に対する不満もたくさんあったのだと思います。

でも、親に文句を言うなど「まともな娘」のすることではないので、
心の奥に押し込めて、不満は見ないようにしてきたことでしょう。
まともな娘でいる事は大事、という価値観を選択したのでしょう。

シュウトメちゃんの服を洗い、ご飯を作り、母親役をし始めた私に
だんだん怒りが募ってきたというのは、
母親に対しては出せなかったけど持っていた、
怒りと甘えが出たのかもしれませんね。

しかし私は母親ではないので、平気で逆らいました。(苦笑)
シュウトメちゃんがもし、「私はもっと自由に生きたかった!」
そんな風に叫べたら楽になったのかな。
それは「まともな娘」でなくなる不安を背負うことを意味するけど、
「まともな娘なんてクソ食らえ!」と叫べたらよかったねぇ・・・。

私だってきっと「まともな嫁」でいようと思っていて、
でも耐えかねて「私はもっと自由に生きたい!」と表現したら、
それを許せなかったシュウトメちゃんに「自殺してやる」って脅されました。

自分が耐えて「まともな娘」「まともな嫁」をやってきたのに、
嫁は耐えないで「まともな嫁」を途中でリタイアしたいと言い出だしました。
それは許せない地雷を踏んだことになったのかもしれません。

「まともな娘」、「まともな嫁」をやっと卒業して、
「嫁にかしずかれる姑」をやろうと思ったら、
koala嫁は、シュウトメの言いなりになる嫁の役目を拒否したわけよね。
「自分の力でできる好きなこと、を自分なりに楽しむ、
50代、60代、70代のオンナ」役ならきっとできたし、
それなりに楽しめただろうに、残念だったね・・・。

そう思うと、今80代のシュウトメちゃんには、
夏の間、施設で仲良しの友達と、施設の不自由さはあるけれど、
それなりの生活の愉しみを味わえる80代を過ごしてねと思うし、
秋になって帰ってきたら、自宅の気楽さも味あわせてあげなくちゃねと
あんまり無理はしないけどね、という注釈つきですが、そう思います。


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今日も長い、長い日記になりました。
これを最後まで読んでくださった方は多分、
私と似た感性をお持ちの方だと思います。
冗談言わないで、嫌だわ、とおっしゃるかもしれませんが。(自虐?)

そうでなければ、途中で、面倒くさいこと考えるオンナだ、
こんな日記はうんざりして読めない、と思われるでしょう。

そしてまた、例外はあるでしょうが、カッとしにくい方のような気がします。

私の日記は脳みそのおしゃべり、という感じなのですが、
脳みそのおしゃべりこそ自分の本質だとは、私は思っていません。
そこそこの距離感があります。
すぐカッとする方は、この距離が狭いのではないかな?という気がします。
私にとっては、瞑想が、この距離を保つのに有効な気がします。

脳みそには、昨日の日記の夢に出てきた検閲係の、
おまわりさんが住んでいますから(怪しい?笑)
いちいち、これは見ないほうがいい、こっちの道が安全、得になる、など
耐えずおしゃべりしていますけれど、そんなうわついたおしゃべり魔が
自分の本質だったら、えらいこっちゃ~と思います。

ここまで読んでくださった方に感謝します。
そして伺いたいです。
あなたの地雷になっている価値観って何ですか?
あ、答えをコメント欄に書かなくていいですよ。
そんなこと、人に語りたくないですよ、普通。(笑)