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2013年03月28日

        

橋爪文さんの被ばく体験 その2

category - 日記
2013/ 03/ 28
                 
この内容は↓の文字起こしを、koalaが短くしたものです。
お時間のあるかたは、ぜひ全文をお読みください。


3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)


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みんなピカドン以来、食べ物はほとんど食べないので、
お腹が当然すいていると思います。
それでみんな重症を負っていますね。
でも、お腹がすいていることも、傷が痛いことも、辛いことも、
一言も、誰もそういう事を口にしなかったんです。

家もないので、近所の方と家族と13人で、
焼け跡から4本の焼け残った棒を拾ってきて、
それをがれきに突っ込んで建てたバラックで、上に焼け残ったトタン。
壁ももちろん無いですし、そして下はがれきです。

昼間は木陰も全然ない、見渡す限りがれきの、赤茶けた野原で、
夕方日が落ちると急に寒くなって、みんな重症なので、
夜露に当たらないように、座った人は座ったまま、
外側の人は頭だけ入ればいいっていうふうに、
みんなくっつきあって夜を過ごしたんですね。

ただくっつきあって寝てて、隣の人の体温が伝わってきて、
「ああ、この人は生きていて下さるんだ」と、口にはしませんが、
お互いにそれを感じながら、それで励まし合って、過ごしたそうです。

辛いこともあの時の事を思えば遥かに今の方がいい、
感謝しなければいけないと思うそうです。

自分も重症を負っていたけれど、逃げることはできた16歳の少年が、
橋爪さんのために、一晩中火の中に残って、
彼女の寝ている間、やかんに水を入れて、
死んでいく人達に一口ずつ水を与えて歩いていた姿を見たこと。

重症者達が、痛くて、空腹で、昼間は暑く夜は寒く、
今後どうなるか、わからない中で、
バラックで身体をくっつけあって、何にも苦情を言わなかったこと。

隣の人の事を常に思って過ごした、ああいう極限状態にあった時に、
「人間って素晴らしいな」っていう事を見た、と橋爪さんは言います。

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ニュージーランドでいろんな中高生と話した時に、
「原爆によって哲学が変わりましたか?」と質問がありました。

「原爆で非常に悲惨で辛い思いをしましたけど、その中で、
極限状態の人間の素晴らしさを見る事が出来ました」と答えました。

次の日に先生が感想文を持ってきて下さった中に、
質問した男子高校生の手紙がありました。

原爆の話はとっても心に衝撃を与えたし感動したけれども、
私が一番感動した事は、文がそんな中にあって人間の素晴らしさを見たっていう、
あの一言に非常に心を打たれて、私もこれから文(橋爪さん)のように
人間の素晴らしさを信じて生きていきます、という手紙でした。
「あぁ、分かってくれたんだな」と思って橋爪さんも感動しました。

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橋爪さんは、30歳の時に、いろんな病気があって、
病気のために東京に広島から移ったのですが、
通院しながら治療して、完全には治らないんですけれども、
よくなってきたということで30歳で結婚して、
30代で3人の男の子を授かりました。

長男さんが、ふっと橋爪さんと二人だけになった時に、
「お母さんの生き方をしてほしい、せめて5年でいいから
お母さんの、自分のために生きて欲しいね」と言ったそうです。

お金も時間もあまりないので、一つに絞って出来る事をしようと思って、
橋爪さんは、英語を選びました。
世界の中、アフリカとか東南アジアとか中南米、
非常に虐げられて苦しい生活している人たちが大勢います。
その人たちと直に触れて人間って、人間の幸せって何かを知りたい、
そういう方たちと触れ合っていきたい、
そのためには一人で飛行機に乗らなければいけないので、
それで英語の勉強を選んだんだということです。

英会話教室の先生はスコットランド人で、
先生が半年経ってスコットランドに帰る時に、
「文がスコットランドに行ったら英語が話せるようになるよ」って。
「ぼくは帰ったら推薦しておくから」って学校を紹介して帰って下さいました。
そのご縁でスコットランドの学校に行きました。

空の星を沈めた水槽の雨水で
わずかな食べ物を煮炊きした
星の光が痛いほど降る露天風呂で湯を浴びた
両手を思いっきり天に伸ばすと星の話が聞こえた
私は生きている
星がきらめいて答えた
お前は生きている
天の下の水槽の底にはミミズが住んでいた
ミミズと私は一緒に生きていた


その際、自分の被ばく体験を書いた詩を、英訳したものを
持っていって見せたところ、先生が被爆者ということで驚かれ、
まず先生方、それから生徒達に伝わりました。

目の前に原爆の生き残りがいるっていう事に先ずショックを受けて、
そのショックが自分の目の前に今原爆が落ちたようなショックで。
「言葉が通じなくても、私がここに存在するだけでこれだけ訴える力があるんだな」
っていう事を感じました。

「生き残り」というのは、「あ、こういう事なのか」と思ったんですね。

原爆なんて事は遠いアジアの国の昔の事だと思っていたところに、
目の前に生き残りの人がいたのでショックを受けたんだと思います。
14歳で被曝して、その時61歳でしたから。
            
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橋爪文さんの被ばく体験  その1

category - 日記
2013/ 03/ 28
                 
「みんな楽しくhappyがいい」というブログに橋爪文さんとおっしゃる
広島での被爆者の方のお話の書き下ろしが掲載されました。
是非できたら全文をお読みいただきたいのですが、
お時間のない方、長文が苦手な方のためにざっくりまとめました。

全文はこちらです。↓
1 その瞬間に、わたしは 「太陽が目の前に落ちた」と思いました 8/4橋爪文氏(文字起こし)

2.炎の下、黄金の世界。 その中で生きることも死ぬことも考えなかった 8/4橋爪文氏(文字起こし)


3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)


4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 8/5橋爪文氏(文字起こし)


ここからはkoalaがざくっとまとめたものです。
ざくっとまとめても長いので分けます。(次に続きます。)

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橋爪文さんは旧制女学校3年生(14歳)のとき、
勤労動員先の広島貯金局で原爆に遭いました。
爆心地から1.5キロメートル地点でした。
そして、頭からひどい出血があり、意識を失いました。
気が付いたら近くの日赤病院へ運ばれていました。
そのあとも橋爪さんは、おう吐、貧血など、いわゆる原爆症に悩まされ続けました。

当時は若い男の方はもちろん、中年の人まで軍隊に兵隊にとられて、
学生や主婦たちが、学徒動員とか主婦動員で、社会に出て働いていました。
殆どの方々が、建物疎開と言って、大きな建物の周りの民家を
病院とか大学とか、観光地を、類焼を防ぐために、
その後わざと壊して空き地にしていたので、
片づけに学生のほとんどが行っていました。
しかし、橋爪さんは、貯金局に行く事になってたので、
屋内でピカドンに遭いました。

原爆が落ちた時、橋爪さんは貯金局に勤労動員として派遣され、
事務室にいて、窓に背を向けた方と対面していました。
その大きな窓が、本当に鮮烈な光を発しました。

七色の光線が、100も1000も集まったような線が見え、
「太陽が目の前に落ちた」と思ったそうです。
と同時に記憶を失っていました。
吹き飛ばされて、多分、柱にぶつかって、そこに落ちたため、
気がついたら血まみれで柱のところにいました。

亡霊のような人たちが、黙って4階から降りてきました。
お掃除のおばさんの子どもが、裸で階段に倒れていました。
着ている物は爆風で飛ばされたんでしょう。
裸で、お腹が裂けて、中からピンク色の腸が湧き出ていて、
まだ生きていて、苦しそうに身もだえする子を
お母さんが見つけて、腸が垂れ下がった子どもを抱いていたそうです。

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地上に降りて、みんな亡霊のような姿の人達が茫然として、
「いったい何が起きたんでしょう、何が起きたんでしょう?」って
もう、その一言をみんな呟いて茫然としていたそうですが、
血まみれの橋爪さんを、同じ係の友柳さんという方が、
日赤病院まで運んだくださったそうです。

日赤病院に行くと、ピカドンの時に外で作業していた人たちが
皮膚が焼けただれて、皮膚が海草みたいに垂れ下がって、
手をみんな、胸の前にぶら下げて歩いているんですけれども、
手も顔もね、赤黒く焼けただれて、倍ぐらいに膨れ上がっていました。
唇なんかも上下にめくれ上がって、男女も年齢も見分けが付かないくらいで。
中学生が一番多かった気がするそうです。

叫び声なんかなんにもない、それを通り越して茫然としていた人々。
橋爪さんもだんだん、目を開ける力も口をきく力も失って、
耳だけ聞こえたそうで、橋爪さんのことを男の人が、
「これはひどい出血だから、眠らせると死にますよ」といったのが聞こえたそうです。

病院に連れて来てくれた友柳さんが、橋爪さんを助けようと、
眠らせないように、名前を呼び続けてくださったそうです。
しばらくして、橋爪さんが声を出すと、友柳さんは安心して、
「私はこれから家に帰って母の安否を調べに帰るから、
必ずここに戻ってくるから、動かないでね」と、何度もおっしゃったそうです。
周囲の人にも、橋爪さんのことをお願いして、
友柳さんがおうちにお帰りになった後で、日赤病院に火が回ってきました。

その友柳さんは、翌年、原爆症で亡くなったそうです。

火の手がどんどん強くなり、橋爪さんは死を覚悟しました。
非常に静かな気持ちだったそうですが、どなたかが、
「まだ誰かいるか、早く逃げろー!」ってものすごく大きな声で叫んだのです。
その声の勢いに押されるようにフワッっと立ち上がる事が出来て、
そして出口の方へ向かって行きました。

外に出ると、今朝まであった町がすっかり消えていました。

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窓という窓から炎を噴き出して、すごい炎で。
その時、日赤病院で大勢の人が避難していましたけれど、
歩ける人はみな歩いて、兵隊さんは担架で運ばれました。

橋爪さんは動けないし、逃げる気持ちもありませんでした。
その時に飯田義昭(よしあき)さんという16歳の少年が、
彼が額と胸に、彼も重傷を負っていたんですが、
足はどうにか歩く事ができたのに、橋爪さんのために火の中に残ってくれました。
知り合いではありませんでした。

頭の上はすごい黄金の炎が、地鳴りみたいな大きな音を立てて、
黄金の世界、炎の下、その中で生きることも死ぬことも考えなくて、
静かな、いずれもう死ぬでしょう、火の粉に包まれて、という中で、
彼が話しかけてきて、名前を聞いたから、お互い名前を知ったそうです。

彼はその朝妹さんと二人で家にいて、潰れた家の下敷きになって、
彼はどうにか這い出したんだそうです。
ところが妹さんが、声は聞こえるけれども深い、その崩れた家屋の下にいて、
いくら一生懸命やってもどうしても自分の力でどうする事も出来ない。

そのうち火が回ってきて、妹さんが
「熱い熱い、お兄さん、水かけて」って言うので、
防火用の水槽とバケツで、声のする方へザバザバかけてて、
そうするともう、足もとまで火が迫ってきて、
妹さんが「お兄さんありがとう」って、
「早く逃げてちょうだい」って言ったそうです。
で、もうそこを離れる以外になかったのでした。

日赤病院の前を通りかかった時に、
自分も重傷を負っていますので、入ってきて、
橋爪さんと会ったという事です。
だから妹さんのかわりに橋爪さんを助けてくれたんです。


その後橋爪さんは、眠くなり、眠りました。
寒くて目が開いたら、傍に飯田さんがいませんでした。
うめき声が怖ろしく、飯田さんを探すと、
彼は、ヤカンにお水を入れて、死んでいく人達に一口ずつあげてはまた、
しゃがんであげてはまた立ちあがって・・・・・
一晩中、死んでいく人にお水をあげて歩いていたそうです。
16歳の少年が!

飯田さんは、彼が一口ずつ、死んでいく人にお水をあげている姿を見て、
「ああ、神様はそこにいる」と思ったと語っています。


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夜明けとともに、飯田さんが、「自分のお母さんがいるところは、
「もしかしたら焼けていないかもしれない。だから傷の手当てをしよう」
と言ったので、そちらに向かって歩きました。
途中まで行ったところで、橋爪さんの叔母の家があったので、
ちょっとそこに行ってみようと寄ったところ、叔母さんが驚き、
30分ぐらい前に橋爪さんの父親がいて、家族はみんな怪我をしているけど、
一カ所に集めた。しかし、橋爪さんだけが見つからない、
日を改めてきますと言って、帰ったばかりだと言うのです。

橋爪さんは、どうしてもお母様に会いたくなり、
怪我を治してからと引き止められましたが、断って、
5~6kmの道のりを歩いて帰ったそうです。
原爆での焼け跡、滅になった広島市を南から北へほぼ縦断したのですが、
一滴もお水が無くなった水槽の中へ白骨がいっぱいあったり、
生きて動くものを全然見ない、草もなにもない、
「死の街」を歩いて帰っていきました。

朝から生きて動くものを見ていなかった橋爪さんの目に、
人間が3人もね、生きて歩いている姿が見えました。
それだけでも、夢だと思いました。
しかもそれが、お母様と叔母様とお姉様だったのです。

みんな全身にガラスの破片や、家が倒れた木の破片が刺さり、
いっぱい怪我してるんですけど、致命傷みたいな傷以外は、
怪我と思わなかったそうです。

お姉様はお台所にいて被爆したので、顔にお鍋かなんかが当たったのか、、
顔がはれ上がって目が見えなかったそうです。

小学校1年生だった弟さんは、ちょうど夏休み中の登校日で、
鉄棒で遊んでいて後ろから光線を受けて亡くなりました。
だから遺体も、前は綺麗だったそうです。
後ろは、真皮からめくれていたのです。
するめを焼く時にくるくるっと巻くように、前に向かって,
皮膚が全部めくれて血も出ていませんでした。


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その原爆のその日のこともですけれど、
その後、被曝後で焼け跡で生きた、みんな傷ついて病気をしながら、
そして何の援助もなかったですから、食べるものもないし、
みんな重症を負っていましたけれど、全部自然治癒。

お医者さんに行った事は、みんな一度もない。
そしてお水は雨水。
で、焼け跡に草が生えるとその草を食べましたけれど、
草が生えるまではね、「何食べてきたのかしら?」って。

生前の時の母だとか、今生き残っているのは私と叔母ですけど、
話すんですけど何を食べたか分からないと言います。

がれきの上から、焼け後から柱を4本拾ってきて、
その上に焼けたトタンを乗っけて、
そんな生活から始まったわけです。何の援助も説明もないのです。

アメリカの爆弾が落ちたぐらいはみんな分かっていますが、
原爆だとか、放射能だとか、そういう説明は一切ありませんでした。

被爆者の方々は、ただ、もうみんな、常に何か病気をしていました。


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長いので、その2に続きます。
また時間が取れたときに書いてアップします。