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2013/03/31
2013/03/30

2013年03月

        

実家のついでにデンパークに

category - 日記
2013/ 03/ 31
                 
昨日は実家の家の空気の入れ替えに行きました。
実家は両親が亡くなってから、空き家になっているので、
時々空気の入れ替えや掃除、草取り、垣根の手入れに行きます。
昨日は本当はオットと一緒に行き、垣根を刈ってもらい、
運動不足解消に、デンパークを歩く予定でしたが、
オットは職場の都合で、急きょ仕事になりました。
日を改めてもいいのですが、空気の入替と草取り・掃除だけでもと、
1人で行ってきたのでした。
 
この公園は実家から車で5分と近いので、
実家の母が末期がんだとわかって、毎日通った頃は、
年間パスポートを作って、よくお散歩に行きました。
昨日の豊田市の公園は無料なのですが、デンパークは大人600円、前売り券だと確か480円、年間パスポートは2,400円です。
今回は安城市の市民だよりについていた無料券を友人にもらったので無料で入りました。(笑)




白い花の咲く木は、花壇には珍しい梨の木です。
実家のある安城市は、梨の産地です。




ユキヤナギの前の白い花も、梨の花です。




  • ここの花壇の色使いはいつもこんな感じで派手。(笑)




しだれ桜は満開でした。
この池には夏には蓮がたくさん咲きます。







最近の天気のよさと暑さは少し異常で、一気に満開になった桜も多いのでは。
来月12日に平安神宮に行くのですが、ちょっと心配。
オットと1泊の予定でしたが、13日のオットの都合がつかなくなり、
ホテルはキャンセルしたので、12日に日帰りで京都に行くんです。
今のところ、平安神宮の開花情報では「咲き始め」になっていますが・・・。




春休みの土曜日ということで、ミッフィーのショーが人気でした。




この画像ではわかりにくいですが、赤いのはハート形になっています。





白いチューリップが満開でした。




こちらはフローラルプレイスという大きな屋内施設の寄せ植え。




この画像で気がつきましたか?
デンパークは、屋外はもちろん地植えですけれど、
屋内の花は、こうやって鉢が置いてあるだけです。
上手に隠してあるので、違和感はありません。
お花を入れ替えする時に、この鉢植えが安く買えるんですよ。
たまたまそのタイミングで入館すれば、ですけどね。







巨大卵の作り物を見て、子どもさんが喜んでいました。




ルピナス、可愛いでしょう?
上からアップで写してみますね。




この日は室内で沖縄の歌を歌うグループの演奏があり、
それを聞いてから帰りました。
実はまだ歩いていない場所があるのですが、
今回はパスしました。
こういう公園は、見とれている間にけっこう歩いて運動になるのでいいですね。





            
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接骨院の帰りにお花見しました

category - 日記
2013/ 03/ 30
                 
昨日は接骨院の帰りに、1人でお花見をしていこうと思い立ち、
多分近いはずと思った鞍ヶ池公園をナビで検索すると、
接骨院からは車で17分。
この鞍ヶ池公園、広くて、広場もミニ動物園、ミニ植物園もあり、
子供たちの小さな頃は、よく遊びに行った場所でした。







日当たりのいい場所の桜は8部咲き。
まだしばらくはお花見を楽しめそうな感じです。




池があってボート遊びも出来るし、山もあってこんな景色も見られます。
この上は高速道路になっていまして、サービスエリアになっています。
サービスエリアの寄り道で2時間も3時間も遊べますよ。(笑)

ひなびた景色もありまして、ミツバツツジも咲いていました。







小さな山の散策道があって、そこに群生しています。
ウォーキングには最適。







桜も見頃ですが、ユキヤナギもきれいです。










歩くのはヘルニアの私の大事な運動です。
腰をそらない運動をして、後でしっかりストレッチするのが大事とか。

公園で桜を観ながらというのは、ココロにも効く、いい運動でした☆
                         
                                  
        

広島からのメッセージ 橋爪文さん

category - 日記
2013/ 03/ 29
                 
最後に橋爪さんがお読みになった広島からのメッセージの全文です。
これはざくっとまとめたりしませんので、ぜひ全文をお読みください。

2011年4月11日

広島から
日本のみなさん、世界のみなさんへ
被爆者 橋爪 文 


私は広島の被爆者で、現在八十歳です。
二〇一一年三月十一日、東日本大震災が起こり、
続いて福島原発事故が発生したとき、
私は六十六年前の原爆被爆と、その前後の市民たちの暮らしについて執筆中でした。
大半を書き終えていた私は、福島原発事故を痛く重く心に抱き、
最終章は故郷広島の原爆の原点に立って書き終えたいと思いました。

夜遅く広島の地を踏んだとき、私は両肩に重い負荷を感じ、
一瞬足が前に進みませんでした。
帰広する度に私は先ず平和公園の慰霊碑に足を運び、
碑の中の親族、友人、知人、そしてあの日、
想像を絶する惨状の中で死んでいった人びとと対話するのが常でしたが、
今回は祈るというよりお願いをしました。
私に、いましばらくの間、健康を与えてください。
私に、ちからを与えてください。
私に、何ができるのか教え、導いてください。

私はあの日、爆心地から約一・五キロメートルの地で被爆し、
瀕死の重傷を負いましたが、
三人の人に助けられ生きのびることができました。
焼け跡でのバラック生活の中で、高熱、鼻や歯ぐきからの出血、
ひどい下痢、嘔吐、全身の紫斑、脱毛など、
急性の原爆症に苦しめられましたが、
このときも奇跡的に生きのびることができました。
しかし、その後、現在に至るまで、次々とさまざまな病気に苦しめられ、
一日として健康体であった日はありません。

「原爆ぶらぶら病」

中でも特に辛かったのは、「原爆ぶらぶら病」でした。
症状は、耐え難いほどの倦怠感です。
私は医師に何度かお願いしました。
「先生、一日でも、一時間でもいいですから、
爽やかで軽いからだにしてください」
でも、それは叶いませんでした。
私は夜寝るときに神に祈りました。
「明日の朝、目が覚めませんように」

それらはすべて放射線による内部被曝によって起こりました。
放射性物質を含んだ水、食物、空気などを体内に取り込むと、
その物質が体内で絶え間なく核分裂を起こして細胞を破壊していき、
遺伝子を狂わせます。それは死ぬまで続きます。
あの日、黒い雨に遭った人、救援や人を探しに市内に入った人たち、
また原爆だけではなく、核実験、原発事故の被曝者たちもみんな内部被曝者です。

内部被曝については、ずっと隠蔽されてきました。
今回の福島原発事故によって、やっと「内部被曝」という言葉が出てくるようになりましたが、
それがどういうものかについて詳しい説明はありません。
原発行政が進められなくなるからです。
原発がクリーンエネルギー、夢のエネルギーと
もてはやされた時期もありましたが、
チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故の後、少し控えられていました。
それなのに近年、世界の多くの国が競って原発を造ろうとしています。
それを原発ルネッサンスなどと呼んでいますね。
この傾向を見て、私はあまり遠くない将来、
必ず地球上のどこかで原発事故が起こる思って警告していました。

「原爆被爆国の日本が放射能発生加害国になっていって良いのでしょうか?」

それが現在、私の国で起こり、しかも毎秒高濃度の放射性物質を漏らしつづけています。
それを止める確固とした手立てもなく、危機的な状態が終わる見通しはたっていません。
国土の狭い、地震国の日本に五十基を超える原発。
しかも地震多発のプレートの上に、過疎地に集中して建てています。

今回の福島原発も第一原発には六号機まであり、
それらは連鎖して危機に陥っています。
また、福島第二原発にも一号機から四号機まであり、
それらもダメージを受けています。
東北の大地震のあと三月十五日には、静岡でも大きな地震が起きました。
東海、駿河湾の大地震は、今世紀前半に一〇〇%起こるといわれています。
しかも直下型。
その上には最大級の浜岡原発があります。
地震の多い日本海側にも原発銀座と呼ばれる福井県をはじめ、多くの原発があります。

日本のみなさん
原爆被爆国の日本が放射能発生加害国になっていって良いのでしょうか?
時間はありません。
現在稼働している原発を止めるように働きかけましょう。
世界の皆さん
加勢してください。
そして、地球上に新しい原発を造ることはもちろん、
いま稼働しているすべての原発を止め、廃炉にするように声を上げましょう。


「反原発に向けて立ち上がる」

私は被爆者として国の内外で反核を訴えてきました。
それは原爆・水爆だけではなく、原発が
地球上の生命を滅ぼす日が来ることを恐れてのことです。
原発は正常に稼働しているときでさえ、
常に微量の放射性物質を放出し、海、空、土を汚しています。
微量放射線の危険性についても隠蔽されています。

地球上に生を受けているのは人間だけではありません。
人間が自らの利得のために、他の生物を犠牲にするのは
不遜ではないでしょうか?
自然と調和して生きていく道を拓くのが、
人間の英知ではないでしょうか?
また二十世紀から二十一世紀に生きる私たちは、
長い人類史のほんの一刻を与えられているに過ぎません。
先達から引き継ぎ、未来へバトンタッチをする、
ほんの一刻を預かっているだけではないでしょうか?

私たち原爆被爆者や、原発事故・核実験などによる
被曝者が一生苦しんできたように、
福島原爆事故による被曝者たちが、これから苦しみつづけることになります。
避難所での厳しい生活にひたすら耐えている人びとの様子が毎日報道されます。
そんな中にあっても、無心な乳幼児、活力を失わない子どもたちの姿に、
私は心を打たれると同時に、そこに希望を見るのです。
放射能は、子どもたちに特に大きな被害を与えて、
彼らの成長を妨げます。
それなのに、政府や電力会社はこの狭い地震国・日本に
さらに十基以上を建て続けるというのです。

放射能に国境はありません。
未来を拓く子どもたちを救うためにも
世界中のみなさん  
共に手を取り合って、反原発に向けて立ち上がりましょう。
                         
                                  
        

橋爪文さんの被ばく体験 その4

category - 日記
2013/ 03/ 29
                 
5完.「あなたは原爆と原発と同じものだと思いますか?」「同じものです」と言いました。 8/5橋爪文氏(文字起こし)

当時は原爆症なんていう言葉も知らなかった橋爪さんは、
6日に被曝して7日の早朝にひどい下痢をしました。
それからずーーーっと下痢は続きました。

日にちははっきり覚えていないそうですが、20日くらい後には、
本当に、急性原爆症と今言われている症状になりました。

高熱が出て、それから全身が、熱のせいもあったかもしれませんが、
ガタガタに崩れるような痛み方、骨がバラバラになるような感じ。
それから鼻血、歯茎からも、口から血が出ました。
全身に斑点、紫斑が出来ました。

そんなになった大抵の方が亡くなっていくのに、
橋爪さんは不思議に生き延びました。

被ばく以来、体調がすっきりした日は1度もなかったそうです。
特に原爆ぶらぶら病という極度の倦怠感とだるさ。
気持ちがいくらあっても体が動かなくなる倦怠感が辛かったそうです。
それでも生活しなければいけない。
結婚すれば子育てもありますし。

そのうちにアメリカの進駐軍が来て
ABCC原爆傷害調査委員会というふうな施設ができ、
ジープが着て連れて行かれました。

放射能の人体に及ぼす影響を調べました。
病気をみんな持っていますけれども、治療は一切しません。
人間扱いをされなかった、まるで品物みたいに扱われた時に、
10代の少女だった橋爪さんは、非常に大きな屈辱感を覚え、
「私もあなたと同じ人間ですよ」と心の中で叫んでいたそうです。


被ばく者同士はあの時、「原爆の時の話をしてもいけない」
というような雰囲気をつくられたと橋爪さんは言います。
後になったらアメリカの指令があったそうで、
プレスコードをひいて報道陣も全部シャットアウトしていました。

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今は被爆者手帳があって、被爆者の方は医療費が免除されますが、
当時は全部自費ですから、お金が無いから行けませんでした。

被爆援護法が出来たのは12年後。
その間に、どんなに苦しくてもお医者さんに行けないまま、
死んだ人が沢山いたことでしょう。
橋爪さんのお父様は、外傷はないものの、紫斑、悪性貧血、
最後は大腸癌で亡くなりました。


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橋爪さんが本を執筆中に、あの福島の事故が起こりました。
「近い将来、世界のどこかで原発事故が起きるだろうな」と、
ある程度確信みたいなものがあったという橋爪さんは、
以前から、反原発を訴えて歩いていました。
今までは、原爆の話はみなさん真剣に聞いて下さるけど、
原発の事は、そんなに強い関心がなかったと言います。

「これがいつか起こる」と思って原稿を書いていて、
それがすぐ、日本で起きたという事に、大きな衝撃を受け、
広島の原点に立って最終稿を書こうと、橋爪さんは広島に行きました。
行ったらフランスの新聞・ラジオ・テレビ・マガジンから、
毎日インタビューがありました。
最初は1~2週間のつもりが結果的に40日滞在しました。
原発立国のフランス人が、これだけ関心を持つという事に、
橋爪さんは、感動を覚えました。

フランスの方に「あなたは原爆と原発と同じものだと思いますか?」と聞かれました。
「同じものです」と答えました。

原爆は人を殺すために、原発は平和利用として作られた。
全然違うじゃないですか?と言われましたので、
作る過程も、核を燃やしてエネルギーを作るのも同じだし、
放射能の被害があるというのも全く同じだから同じ事ですと、
その時に橋爪さんはハッキリ言ったそうです。

原発を動かしている限り、廃棄物は常に出ます。
それがどんどん世界中に溜まって行きます。
まだ処置の仕方も分かってません。世界のどの国も。

福島の原発で、あれだけのがれきができて、
放射能を含んだ水も漏れて地上も汚してるし、
水も土も食料も汚染し続ける事を思うと、
これは福島だけでも、日本だけでもない、もう世界の問題です。

将来はもちろんですが、先ず身近なところで次世代。
それに重いバトンを渡すことになってしまったことが、
今ずーっと福島以来気持ちを重くしていて、
橋爪さんは書く方が進まないとおっしゃいます。

こんなメッセージがありましたので、これは原文のまま。

地球上に生を受けているのは人間だけではありません。
人間が自らの利得のために、他の生物を犠牲にするのは不遜ではないでしょうか。
自然と調和して生きていく道を開くのが、人間の英知ではないでしょうか。
また、20世紀から21世紀に生きるわたしたちは、
長い人類史のほんのひと時を与えられているにすぎません。
先達(せんだち)から引き継ぎ未来へバトンタッチをする、
ほんのひと時を預かっているだけではないでしょうか。
                         
                                  
        

橋爪文さんの被ばく体験 その3

category - 日記
2013/ 03/ 29
                 
橋爪さんのお話はまだ続きます。
今回は↓の文字起こしをkoalaがざくっととまとめたものです。
4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 8/5橋爪文氏(文字起こし)
お時間のある方はぜひ上をクリックして全文をお読みください。

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スコットランドの学校で被ばく体験を語ってから2年後に
「シルバー英語研修でニュージーランドへ行きませんか?」というお誘いがあり、
橋爪さんは、すぐ応募して2週間ニュージーランドに行きました。
海外で話すようになったのはこれが始まりです。

反応は大きいそうです。
向こうの人達は、原爆の事に関心を持っていて、勉強もしています。
「知っているつもりで知らないのは日本だな」と、
橋爪さんは、痛感しながらここ10数年海外を歩きました。

特にニュージーランドは反核の国で、
一応先進国ですけれども、原発も一基もありません。
夜は暗いもの。必要最低限の街灯もありますが、
日本みたいにコンビニが四六時中やっているということもないです。
大体5時か5時半に閉まります。

そんなもんだと思った生き方をしていますから、
原発がなくても不満を持たないでやってきています。

ニュージーランドは、ヒロシマデ―を毎年やっていて、
灯篭流しをやっているそうです。
「同じ太平洋に注ぐ川を持つ私たちは広島と同じ思いで
反核を訴えよう」という事が趣旨だそうです。

世界のあちこちでヒロシマデ―ってやっているんです。
ヒロシマデーをやっている国を巡ろうと、
橋爪さんは、フィンランド、ヘルシンキにも行きました。
スウェーデンの灯篭流しやカナダの灯篭流しにも行きました。
今は広島・長崎デーにいずれもなっていますけれど、
最初はどこもヒロシマデ―でした。

どこでも出る質問、それは「アメリカ人を憎んでいますか?」
「人間は、憎みません」と答えます。
「アメリカが原爆を人間の上に落としたという事に対しては、
私は許せません」とも答えました。

「報復を考えた事がありますか?」と聞かれると、
「憎しみや報復があるところに平和は来ないでしょ」と答えました。

「あれから63年経ちますけれども、あなたは今もアメリカに
謝罪してほしいですか?保証してほしいですか?」
という質問もありました。
「被爆者に対してでなく、全人類に対して謝罪するのが
アメリカの良心じゃないんでしょうか」と答えました。

原爆を人間に落としたという事は、
人類史上始まって以来の最大の罪悪だと思うのです。
憎むとか、許す許せないっていう事じゃないところにいるような気がします。


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クライストチャーチで、ヒロシマデ―を始めた発起人の中の1人、
作家のエルシー・ロックという人に会いました。

橋爪さんはエルシー・ロックさんに言われました。

原爆は広島だけの事ではない。日本だけの事でもない。
現在の世界と、またそれだけでもなく未来の地球のこと。
あなたは、話さなきゃいけない、書かなきゃいけない。

橋爪さんが詩を作り始めたきっかけは、余命宣告でした。
それまでは、家事に明け暮れていた主婦だったのです。

息子さんたちがまだ幼い頃(3歳6歳9歳の3人)に
「あと半年ですね」と余命宣告された橋爪さんは、
息子さんたちが、生きて行くのが辛くさみしい思いをするだろうと思い、
子どもへのメッセージの詩を書くようになったそうです。

童謡を作って、彼らが苦しい時にその童謡を口ずさんで、
お母さんが「生きるのよ」って励ましてくれていると
思ってくれればいいなと思って、詩を作りはじめました。
ありがたいことに、余命宣告は当たりませんでした。

生きていたので、子どもへのメッセージの詩をまとめようと思っていたころ、
16歳になっていた次男さんが、横須賀に米軍の基地に、
核搭載疑惑の潜水艦が、入港するということで
「反対の座り込みに行く」と言い出しました。
次男さんはぜんそくが持病で、前の晩も発作を起こして寝ていなかったので、
命に関わると思い、橋爪さんは次男さんを止めました。

そうしたら次男さんはボロボロ泣きながら、言ったそうです。
「お母さんは被爆者で平和を求めているのになにもしないじゃない。
家事が大変なのはわかるけれども、新聞の投書とか何か出来るでしょ」

次男さんが寝た後で、「私になにが出来るのかな」と思っても、
何も考え付かなかったのですが、子供への詩をまとめようと
鉛筆を持って紙にむかったら、原爆の6日の夜、
火の粉を浴びながら飯田さんと過ごした、あの夜の事が詩になって出てきました。
出来上がったのが明け方で、それを、次男さんのお弁当に入れました。

次男さんは学校から帰って、「お母さん、わかったよ」って言いました。
非常に不思議なんですけど、それを書いた途端に、
それまでずーーっと背中に重いものを背負って生きてきた、
その重さが、フッと薄れてきたそうです。
                         
                                  
        

橋爪文さんの被ばく体験 その2

category - 日記
2013/ 03/ 28
                 
この内容は↓の文字起こしを、koalaが短くしたものです。
お時間のあるかたは、ぜひ全文をお読みください。


3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)


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みんなピカドン以来、食べ物はほとんど食べないので、
お腹が当然すいていると思います。
それでみんな重症を負っていますね。
でも、お腹がすいていることも、傷が痛いことも、辛いことも、
一言も、誰もそういう事を口にしなかったんです。

家もないので、近所の方と家族と13人で、
焼け跡から4本の焼け残った棒を拾ってきて、
それをがれきに突っ込んで建てたバラックで、上に焼け残ったトタン。
壁ももちろん無いですし、そして下はがれきです。

昼間は木陰も全然ない、見渡す限りがれきの、赤茶けた野原で、
夕方日が落ちると急に寒くなって、みんな重症なので、
夜露に当たらないように、座った人は座ったまま、
外側の人は頭だけ入ればいいっていうふうに、
みんなくっつきあって夜を過ごしたんですね。

ただくっつきあって寝てて、隣の人の体温が伝わってきて、
「ああ、この人は生きていて下さるんだ」と、口にはしませんが、
お互いにそれを感じながら、それで励まし合って、過ごしたそうです。

辛いこともあの時の事を思えば遥かに今の方がいい、
感謝しなければいけないと思うそうです。

自分も重症を負っていたけれど、逃げることはできた16歳の少年が、
橋爪さんのために、一晩中火の中に残って、
彼女の寝ている間、やかんに水を入れて、
死んでいく人達に一口ずつ水を与えて歩いていた姿を見たこと。

重症者達が、痛くて、空腹で、昼間は暑く夜は寒く、
今後どうなるか、わからない中で、
バラックで身体をくっつけあって、何にも苦情を言わなかったこと。

隣の人の事を常に思って過ごした、ああいう極限状態にあった時に、
「人間って素晴らしいな」っていう事を見た、と橋爪さんは言います。

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ニュージーランドでいろんな中高生と話した時に、
「原爆によって哲学が変わりましたか?」と質問がありました。

「原爆で非常に悲惨で辛い思いをしましたけど、その中で、
極限状態の人間の素晴らしさを見る事が出来ました」と答えました。

次の日に先生が感想文を持ってきて下さった中に、
質問した男子高校生の手紙がありました。

原爆の話はとっても心に衝撃を与えたし感動したけれども、
私が一番感動した事は、文がそんな中にあって人間の素晴らしさを見たっていう、
あの一言に非常に心を打たれて、私もこれから文(橋爪さん)のように
人間の素晴らしさを信じて生きていきます、という手紙でした。
「あぁ、分かってくれたんだな」と思って橋爪さんも感動しました。

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橋爪さんは、30歳の時に、いろんな病気があって、
病気のために東京に広島から移ったのですが、
通院しながら治療して、完全には治らないんですけれども、
よくなってきたということで30歳で結婚して、
30代で3人の男の子を授かりました。

長男さんが、ふっと橋爪さんと二人だけになった時に、
「お母さんの生き方をしてほしい、せめて5年でいいから
お母さんの、自分のために生きて欲しいね」と言ったそうです。

お金も時間もあまりないので、一つに絞って出来る事をしようと思って、
橋爪さんは、英語を選びました。
世界の中、アフリカとか東南アジアとか中南米、
非常に虐げられて苦しい生活している人たちが大勢います。
その人たちと直に触れて人間って、人間の幸せって何かを知りたい、
そういう方たちと触れ合っていきたい、
そのためには一人で飛行機に乗らなければいけないので、
それで英語の勉強を選んだんだということです。

英会話教室の先生はスコットランド人で、
先生が半年経ってスコットランドに帰る時に、
「文がスコットランドに行ったら英語が話せるようになるよ」って。
「ぼくは帰ったら推薦しておくから」って学校を紹介して帰って下さいました。
そのご縁でスコットランドの学校に行きました。

空の星を沈めた水槽の雨水で
わずかな食べ物を煮炊きした
星の光が痛いほど降る露天風呂で湯を浴びた
両手を思いっきり天に伸ばすと星の話が聞こえた
私は生きている
星がきらめいて答えた
お前は生きている
天の下の水槽の底にはミミズが住んでいた
ミミズと私は一緒に生きていた


その際、自分の被ばく体験を書いた詩を、英訳したものを
持っていって見せたところ、先生が被爆者ということで驚かれ、
まず先生方、それから生徒達に伝わりました。

目の前に原爆の生き残りがいるっていう事に先ずショックを受けて、
そのショックが自分の目の前に今原爆が落ちたようなショックで。
「言葉が通じなくても、私がここに存在するだけでこれだけ訴える力があるんだな」
っていう事を感じました。

「生き残り」というのは、「あ、こういう事なのか」と思ったんですね。

原爆なんて事は遠いアジアの国の昔の事だと思っていたところに、
目の前に生き残りの人がいたのでショックを受けたんだと思います。
14歳で被曝して、その時61歳でしたから。
                         
                                  
        

橋爪文さんの被ばく体験  その1

category - 日記
2013/ 03/ 28
                 
「みんな楽しくhappyがいい」というブログに橋爪文さんとおっしゃる
広島での被爆者の方のお話の書き下ろしが掲載されました。
是非できたら全文をお読みいただきたいのですが、
お時間のない方、長文が苦手な方のためにざっくりまとめました。

全文はこちらです。↓
1 その瞬間に、わたしは 「太陽が目の前に落ちた」と思いました 8/4橋爪文氏(文字起こし)

2.炎の下、黄金の世界。 その中で生きることも死ぬことも考えなかった 8/4橋爪文氏(文字起こし)


3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)


4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 8/5橋爪文氏(文字起こし)


ここからはkoalaがざくっとまとめたものです。
ざくっとまとめても長いので分けます。(次に続きます。)

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橋爪文さんは旧制女学校3年生(14歳)のとき、
勤労動員先の広島貯金局で原爆に遭いました。
爆心地から1.5キロメートル地点でした。
そして、頭からひどい出血があり、意識を失いました。
気が付いたら近くの日赤病院へ運ばれていました。
そのあとも橋爪さんは、おう吐、貧血など、いわゆる原爆症に悩まされ続けました。

当時は若い男の方はもちろん、中年の人まで軍隊に兵隊にとられて、
学生や主婦たちが、学徒動員とか主婦動員で、社会に出て働いていました。
殆どの方々が、建物疎開と言って、大きな建物の周りの民家を
病院とか大学とか、観光地を、類焼を防ぐために、
その後わざと壊して空き地にしていたので、
片づけに学生のほとんどが行っていました。
しかし、橋爪さんは、貯金局に行く事になってたので、
屋内でピカドンに遭いました。

原爆が落ちた時、橋爪さんは貯金局に勤労動員として派遣され、
事務室にいて、窓に背を向けた方と対面していました。
その大きな窓が、本当に鮮烈な光を発しました。

七色の光線が、100も1000も集まったような線が見え、
「太陽が目の前に落ちた」と思ったそうです。
と同時に記憶を失っていました。
吹き飛ばされて、多分、柱にぶつかって、そこに落ちたため、
気がついたら血まみれで柱のところにいました。

亡霊のような人たちが、黙って4階から降りてきました。
お掃除のおばさんの子どもが、裸で階段に倒れていました。
着ている物は爆風で飛ばされたんでしょう。
裸で、お腹が裂けて、中からピンク色の腸が湧き出ていて、
まだ生きていて、苦しそうに身もだえする子を
お母さんが見つけて、腸が垂れ下がった子どもを抱いていたそうです。

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地上に降りて、みんな亡霊のような姿の人達が茫然として、
「いったい何が起きたんでしょう、何が起きたんでしょう?」って
もう、その一言をみんな呟いて茫然としていたそうですが、
血まみれの橋爪さんを、同じ係の友柳さんという方が、
日赤病院まで運んだくださったそうです。

日赤病院に行くと、ピカドンの時に外で作業していた人たちが
皮膚が焼けただれて、皮膚が海草みたいに垂れ下がって、
手をみんな、胸の前にぶら下げて歩いているんですけれども、
手も顔もね、赤黒く焼けただれて、倍ぐらいに膨れ上がっていました。
唇なんかも上下にめくれ上がって、男女も年齢も見分けが付かないくらいで。
中学生が一番多かった気がするそうです。

叫び声なんかなんにもない、それを通り越して茫然としていた人々。
橋爪さんもだんだん、目を開ける力も口をきく力も失って、
耳だけ聞こえたそうで、橋爪さんのことを男の人が、
「これはひどい出血だから、眠らせると死にますよ」といったのが聞こえたそうです。

病院に連れて来てくれた友柳さんが、橋爪さんを助けようと、
眠らせないように、名前を呼び続けてくださったそうです。
しばらくして、橋爪さんが声を出すと、友柳さんは安心して、
「私はこれから家に帰って母の安否を調べに帰るから、
必ずここに戻ってくるから、動かないでね」と、何度もおっしゃったそうです。
周囲の人にも、橋爪さんのことをお願いして、
友柳さんがおうちにお帰りになった後で、日赤病院に火が回ってきました。

その友柳さんは、翌年、原爆症で亡くなったそうです。

火の手がどんどん強くなり、橋爪さんは死を覚悟しました。
非常に静かな気持ちだったそうですが、どなたかが、
「まだ誰かいるか、早く逃げろー!」ってものすごく大きな声で叫んだのです。
その声の勢いに押されるようにフワッっと立ち上がる事が出来て、
そして出口の方へ向かって行きました。

外に出ると、今朝まであった町がすっかり消えていました。

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窓という窓から炎を噴き出して、すごい炎で。
その時、日赤病院で大勢の人が避難していましたけれど、
歩ける人はみな歩いて、兵隊さんは担架で運ばれました。

橋爪さんは動けないし、逃げる気持ちもありませんでした。
その時に飯田義昭(よしあき)さんという16歳の少年が、
彼が額と胸に、彼も重傷を負っていたんですが、
足はどうにか歩く事ができたのに、橋爪さんのために火の中に残ってくれました。
知り合いではありませんでした。

頭の上はすごい黄金の炎が、地鳴りみたいな大きな音を立てて、
黄金の世界、炎の下、その中で生きることも死ぬことも考えなくて、
静かな、いずれもう死ぬでしょう、火の粉に包まれて、という中で、
彼が話しかけてきて、名前を聞いたから、お互い名前を知ったそうです。

彼はその朝妹さんと二人で家にいて、潰れた家の下敷きになって、
彼はどうにか這い出したんだそうです。
ところが妹さんが、声は聞こえるけれども深い、その崩れた家屋の下にいて、
いくら一生懸命やってもどうしても自分の力でどうする事も出来ない。

そのうち火が回ってきて、妹さんが
「熱い熱い、お兄さん、水かけて」って言うので、
防火用の水槽とバケツで、声のする方へザバザバかけてて、
そうするともう、足もとまで火が迫ってきて、
妹さんが「お兄さんありがとう」って、
「早く逃げてちょうだい」って言ったそうです。
で、もうそこを離れる以外になかったのでした。

日赤病院の前を通りかかった時に、
自分も重傷を負っていますので、入ってきて、
橋爪さんと会ったという事です。
だから妹さんのかわりに橋爪さんを助けてくれたんです。


その後橋爪さんは、眠くなり、眠りました。
寒くて目が開いたら、傍に飯田さんがいませんでした。
うめき声が怖ろしく、飯田さんを探すと、
彼は、ヤカンにお水を入れて、死んでいく人達に一口ずつあげてはまた、
しゃがんであげてはまた立ちあがって・・・・・
一晩中、死んでいく人にお水をあげて歩いていたそうです。
16歳の少年が!

飯田さんは、彼が一口ずつ、死んでいく人にお水をあげている姿を見て、
「ああ、神様はそこにいる」と思ったと語っています。


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夜明けとともに、飯田さんが、「自分のお母さんがいるところは、
「もしかしたら焼けていないかもしれない。だから傷の手当てをしよう」
と言ったので、そちらに向かって歩きました。
途中まで行ったところで、橋爪さんの叔母の家があったので、
ちょっとそこに行ってみようと寄ったところ、叔母さんが驚き、
30分ぐらい前に橋爪さんの父親がいて、家族はみんな怪我をしているけど、
一カ所に集めた。しかし、橋爪さんだけが見つからない、
日を改めてきますと言って、帰ったばかりだと言うのです。

橋爪さんは、どうしてもお母様に会いたくなり、
怪我を治してからと引き止められましたが、断って、
5~6kmの道のりを歩いて帰ったそうです。
原爆での焼け跡、滅になった広島市を南から北へほぼ縦断したのですが、
一滴もお水が無くなった水槽の中へ白骨がいっぱいあったり、
生きて動くものを全然見ない、草もなにもない、
「死の街」を歩いて帰っていきました。

朝から生きて動くものを見ていなかった橋爪さんの目に、
人間が3人もね、生きて歩いている姿が見えました。
それだけでも、夢だと思いました。
しかもそれが、お母様と叔母様とお姉様だったのです。

みんな全身にガラスの破片や、家が倒れた木の破片が刺さり、
いっぱい怪我してるんですけど、致命傷みたいな傷以外は、
怪我と思わなかったそうです。

お姉様はお台所にいて被爆したので、顔にお鍋かなんかが当たったのか、、
顔がはれ上がって目が見えなかったそうです。

小学校1年生だった弟さんは、ちょうど夏休み中の登校日で、
鉄棒で遊んでいて後ろから光線を受けて亡くなりました。
だから遺体も、前は綺麗だったそうです。
後ろは、真皮からめくれていたのです。
するめを焼く時にくるくるっと巻くように、前に向かって,
皮膚が全部めくれて血も出ていませんでした。


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その原爆のその日のこともですけれど、
その後、被曝後で焼け跡で生きた、みんな傷ついて病気をしながら、
そして何の援助もなかったですから、食べるものもないし、
みんな重症を負っていましたけれど、全部自然治癒。

お医者さんに行った事は、みんな一度もない。
そしてお水は雨水。
で、焼け跡に草が生えるとその草を食べましたけれど、
草が生えるまではね、「何食べてきたのかしら?」って。

生前の時の母だとか、今生き残っているのは私と叔母ですけど、
話すんですけど何を食べたか分からないと言います。

がれきの上から、焼け後から柱を4本拾ってきて、
その上に焼けたトタンを乗っけて、
そんな生活から始まったわけです。何の援助も説明もないのです。

アメリカの爆弾が落ちたぐらいはみんな分かっていますが、
原爆だとか、放射能だとか、そういう説明は一切ありませんでした。

被爆者の方々は、ただ、もうみんな、常に何か病気をしていました。


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長いので、その2に続きます。
また時間が取れたときに書いてアップします。
                         
                                  
        

シュウトメちゃんの足の痛み

category - 日記
2013/ 03/ 26
                 
私の職場では、来月からレジが変わります。
操作方法も変わるので、先週は講習会がありました。
その日の朝、シュウトメちゃんが足が痛いから病院へと言い、
講習会が10時半からだから帰りは無理なんだけど・・・と
大騒ぎした日でもありました。

今週は、新レジの実技練習があります。
今朝、実技練習を受ける予定で、受けてきました。
講習会の時とそっくりの感じでシュウトメちゃんに呼ばれ、
足が痛いから、病院に行ってくれと、今朝も言われました。
実技練習が10時半からだから、帰りはやはり無理なんだけど、
今日はオットが夜勤なので、お迎えはオットに行ってもらう事に。

シュウトメちゃんは、左半身不随になってから、
もう30年以上も、びっこを引いて歩いているので、
どうしても、いい方の足に負担がかかります。
年齢も82歳になりますし、足や膝が痛くなるのは、
避けられない、防ぎようのないことみたいです。
もちろん、痛みの緩和治療はしていただけますが・・・。

少し前、叔母の足がとても痛んだことがありましたが、
痛み止めで様子を見ていると、どんどん良くなっていきました。
あんな風に痛みが去ってくれると助かります。

今度は明後日、病院へ行くから送ってと言われました。
今日、シュウトメちゃんは、病院から帰った後は、
ずっとベッドの中でテレビを見てたそうです。

いつまで自分の足で歩けるのかな・・・。
車椅子になると、今の家のままでは無理。
大幅なリフォームが必要です。
いくらかかるんだろう・・・。

歩くことで痛みが出ていたのは、なくなるでしょうが、
動かさないことによるダル重な痛みがありそうな気がします。

年を取るのも大変な仕事です。
                         
                                  
        

シュウトメちゃんとの毎日

category - 日記
2013/ 03/ 25
                 
シュウトメちゃんが部屋で転んでしまいました。
派手に転んだのではなくて、ずるずると転んだらしく、
打ち身の心配もなさそうでよかったのですが、
こうなるとシュウトメちゃんは助けも呼べません。

別に立てなくても、ずりずり動けば、部屋の電話まで
行けるんじゃないかと聞いたことがあるのですが、
出来ないという答えでしたから、
1人でいるときに転んだら、誰か帰って来るまでアウトです。

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私は普段、離れと母屋を行き来していますが、
基本的には離れの家にいるんですよ。
今日は燃えるゴミの日で、転倒時には離れでごみを入れてました。

ちょうど娘が休みで、助かりました。
電動座椅子の座椅子を一番下まで下げると、床とほぼ同じ位置。
その座椅子の椅子部分に移動させられれば、
あとは電動座椅子を上に移動させれば、引き上げてくれます。

長女はあまり力持ちとは言えず、シュウトメちゃんの全体重を
そのまま引き上げるのは出来ませんでした。
私も昔は痛みは走りましたが、引き上げることが出来ましたが、
椎間板ヘルニアになった今は、電動座椅子まで引っ張るのも無理。

娘の部屋はシュウトメちゃんの部屋とは
廊下を挟んで向かい合わせなので、声が聞こえたんですね。
シュウトメちゃんの声は小さいので、長女がもし、
部屋で音楽でも聞いていたら、聞こえません。

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長女が休みで、家にいて、シュウトメちゃんの声も聞こえて、
ラッキーだったなぁと思いながら、良かったねと言うと、
シュウトメちゃんはぶすっとしています。
どこか痛みが?と思ったらそうではなくて、
デイサービスのお迎えに間に合わなくなると言って仏頂面してたんです。
「服は今着ているので我慢して、ベストだけ着ようか。
朝ご飯は菓子パンにして・・」と私が言うのをさえぎって、
「こんな服じゃ恥ずかしい!」と怒ります。

食事の際エプロンしようというのにしないから、
シミがあるんですよ、服に。
ベストを着れば隠れるし、お風呂に入ったら着替えるんだから、
着替えの服を持っていけばいい・・・。
というより、エプロンもそうだけど、シミの取れない服とか、
毛玉だらけになった服は、いつ転ぶかわからないんだから、
捨てちゃいましょうと言うのを絶対に聞かないから、
こういう時に自分が困るんですよ。

昔はここでかち~ん!と頭にきてたけれど、
全てはシュウトメちゃんの自由で結果を背負うのも本人と
考えるようになってからは、あまり怒らないで済みます。
私のせいみたいに言われるので、少しはかちんと来ますが、
それは多分私自身に「役に立つ嫁がいい、役に立たない嫁はダメ」
そんな価値観があるので、役に立たないような言われ方をすると、
心が少し傷ついてしまい、それが怒りになるのかなと思っています。

いまや「役に立たない嫁でもいいじゃないの~」の境地!に
達しかけているワタクシなのですよ。オホホ・・・。

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しかし、これで終わらなかったの。
私はシュウトメちゃんが電動座椅子で普通の高さに座れたのを確認後、
急いで外に出て、草取りした草を、ゴミ袋に入れました。
全部で8袋分の草が納まりました。
(昔は1人で10袋以上の草を取ったものだけど、
腰を壊した私は、前より役に立たなくなったわね~、
でも、役に立たないでもいいんだ!って思えるようになろう。
世界中に、効率的に動けない人っていうのはいるんだから、
役に立つことだけがいいんじゃないんだという
価値観が正しいように思えるから・・・きちんとそれを根付かせたい)

そんな風に心の中であれこれ思いながら、草を袋にいれ、
家の草以外のゴミももちろんゴミ袋に入れたので、
車に入れて、ゴミ捨て場に行って来ました。


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帰ったら、シュウトメちゃんが怒ってたんですよ。
今度は何?お迎えの間が迫っててヒステリー起こした?
聞けば、私が離れにいると思って、ずっと電話で呼んだそうなんです。
でも、電話に出ないし、何度呼んでも来ないって怒ってました。

「・・・・ゴミの日だからって、おばあちゃんの部屋のゴミも集めたでしょ?
ゴミを出しに言ってたんだよ。
今日は草取りした草を乾かしておいたのがたくさんあったから、
それを袋に入れるのに長いこと外にいたし。
で、用事は何だったの?」

「ご飯も食べてない!薬も飲んでない!」
「机の上にパンが・・・」ここまで言って気がつきました。
パンを食べる時は、喉がかさかさするので、必ず飲み物をつけるんですが、
朝の転倒騒ぎと、ゴミだししないと収集車が来ちゃうという状況で、
うっかり忘れていたんですね。

でも、何度電話しても出ないし来ないなら、普通はそこに私はいないよ?
長女の部屋をノックして、何が飲みたかったか知らないけど、
お茶でもカップスープでもココアでも、入れてと頼めばよかったのでは?
緊急事態だったんだから、最悪、白湯でもいいじゃないの?

シュウトメちゃんは、ペットボトルもアルミ缶も紙パックジュースも、
自分で開けられないし、粉のものはこぼしちゃうので、
基本、飲み物は私が入れてるんです。電気ポットはあるけど。
緊急時用に、ティーバッグでもシュウトメちゃんの机に置いておこうかな・・・。

「玄関でお迎えの人が来るまで、軽く食べればいいじゃない?
お迎えが来たら、薬だけ飲む間待ってもらって」と言いましたが、
まあ、怒っているので、なだめて食べさせるのはほぼ不可能。
玄関までシュウトメちゃんのバッグを運びました。

結局玄関で10分近く待ったので、本当は玄関で軽く食べて、
お薬を飲む余裕はあったと思うけど、好きにしてちょうだい~。

めちゃくちゃに腹が立たないって、こんなに楽だったのね。(笑)
少しはムッとしたのですけどね。
私のせいで朝ご飯を食べ損ねたみたいに言うんですもん。

こんなやりとりが、私のシュウトメちゃんとの毎日です。
全く、誰がアナタのポータブルの中のウンチを片付けてると思ってんの?(苦笑)
                         
                                  
        

今日はぐだぐだする日です

category - 日記
2013/ 03/ 23
                 
少し草取りに励んだら、腰がやや悪化~。
こういう時は、ストレッチに限るのだけど、
なぜかこういう時に限って、とても忙しかったのです。
シュウトメちゃんを病院に連れて行くとか、
職場のレジが新しくなるのでその講習会とか。
眠る前の時間があるんですが、疲れちゃって、
ストレッチもサボり気味だったので、
パソコンタイムも大幅に減らしておりました。

教訓。
スケジュールが詰まっている時には草取りしない!(笑)

ちょうど仕事がお休みだった長男に、草取りを依頼しました。
全部は無理ですが、根の張った大きな草を、
こことここと・・・って指定依頼したので、
見た目はかなり草取りが進みました。
昨年、大幅に庭を埋め立てちゃったので、
草取りの範囲が激減しています。

秋に植えた球根たちが育ってくれば、
雑草はそこそこ隠れてくれるし♪

今日はお休みなので、草取りできるんですが、
腰痛の時の草取りは厳禁なので当然(!)パス。
昔は「腰痛だから草取りはパス」なんて出来なかったのよね。
今は平然と出来ちゃうわ~。

今日はストレッチと温泉とアロマオイルマッサージでぐだぐだする予定。

実は、ぐだぐだするのに、罪悪感が生じる年代でございます。
年々、罪悪感なんていらないんだというのがわかってきて、
薄らいできているのですが、皆無かといったらそうでもないのね。

「主婦は自分を犠牲にして当たり前」という、
まるでシュウトメちゃんのような(!)無用の価値観が、
私の中でゼロにならないと、罪悪感は消えないのでしょうか。

自分に向かって叫んでみましょう。
そんなの全然当たり前じゃないよ~。
疲れたり痛かったら、ぐだぐだしたっていいんだよ~。
誰の健康だって、等しく大事だよ~。
自分を犠牲にして当たり前の人なんかいないよ~。

さあ、今日はぐだぐだしよっと。